告もなくいきなり、崔冷紅の前に差出しました。
「崔家の慣例に従ったのだ。受けてくれますか。」
崔冷紅の顔には真赤な血が漲りました。彼女は五年前と同じようにすらりとした体躯でしたが、顔立は母親に似てきて、その頬の皮膚が薄く透いて見えました。
「受けてくれますか。」と曹新はくり返しました。
崔冷紅は顔を伏せてじっと立っていましたが、ほろりと涙を落すと、とたんに昔の態度そのままに戻って、曹新の側にかけより、その袖をつかんで、誰もいない次の室へ引張ってゆき、彼の胸に身を投げかけて泣きました。
「嬉しいわ、お兄さん。」
「いや、もうお兄さんなんていうんじゃないよ。」
そこで二人は初めて笑いました。そして奥の室へゆきました。
崔之庚が待っていました。崔之庚の様子はだいぶ変っていました。小さな頭巾をかぶり、火桶の上にかざした両手を揉み合せながら、小首をかしげて応対する態度は、全く温和な柔かさと円みとを具えていました。ただその眼の光に以前通りの鋭さが残っていました。
彼は曹新から崔冷紅への贈物のことを聞いて、心から何度もうなずきました。
「お前がまた戻ってくることを、わしははっきり感じていた。」と彼はいいました。「吾々のうちには、どうにも出来ない根深いものがいつも残っているからね。」
「ええそうです。」と曹新はいいました。「ただ、戻って来ましたについて、お許しを願わなければならないことが、二つあります。」
「許すも許さないもない、お前の好きなようにするがよい。だがまあ話してみなさい。」
曹新は顔を下に向けたままいいました。
「一つは、私はこれから、この土地で医療をやりたいと思います。そのために、五年間医学の勉強をしてきました。どうにか実際の治療もやれます。気をつけて見ますと、この家にだって、眼病にかかってる者がいくらもありますし、近村にはいろいろな病人が多いことでしょう。それを、出来るだけ面倒みてやりたいと思います。それからも一つは、これは私一個人の気持ですが、あの徐和が災難を受けた時、庭の太湖石を河に沈めましたが、あの場所に、ちょっとした碑を建てたいと思っています。徐和のためにではありません。私の生き方のためにです。つきつめたところをいいますと、私個人ではなく、徐和のような存在に対して、吾々はこれから闘ってゆかねばならないという信念が、だんだんはっきりしてきました。」
曹新は一気にいってしまって、そっと崔之庚の顔色を窺いました。崔之庚はただうなずきながら、やはり温和な柔い態度をしていました。
「ああ、それはよいことだ。」と彼は答えました。「どちらも、お前の気の向くようにするがよかろう。それから、わしについてもまた、なにかの碑を建てたくなるようなことが、近いうちに起るかも知れないよ。」
「それは、どういう意味ですか。」
「お前にも大体分ってると思うが、わしはもうすっかりあらゆる野心を捨てて、こういう生活をしている。徐和とは違った意味での隠遁だな。どうも吾々は、結局のところ、変なところへ突き当ってしまう癖があるらしい。ところが、そのために却って、危険な地位に立つこともあるらしいよ。」
崔之庚は微笑を浮べて何気なく話していましたが、それが、曹新には大きな不安となって響きました。
「まあ話はいつでもゆっくり出来る。」と崔之庚はふいにいいました。「冷紅がみごとな贈物を貰ったお礼に、早速、老酒の古い甕を開けることにしよう。紹興の本場物だよ。」
隅の卓子で古い絵本を繰っていた崔冷紅が、顔を挙げて、睨むような笑うような眼付を、崔之庚と曹新との方へ向けました。
崔之庚は立上りました。いと満足げな温良な様子でした。
そして、十日ほど後には、河のほとりの野原で、短刀に胸をえぐられて死体となってる崔之庚が見出されたのでありました。
その河のほとりに、今でも小さな然し頑丈な碑が一つ建っております。何のためのものとも分らない無銘の碑でありますが、もしそれに文字が刻まれたとしたなら、その文字を読み解けば大凡このような物語となるでありましょうか。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1940(昭和15)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月13日作成
2008年1月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング