って、こんなところに働いていて、どこに拠りどころが、頼りどころがあるのか。
「ねえ、みさ子さん、さよちゃんもよ、こんなところやめちまえよ。」
「あら、どうして?」
「いいことを教えてやろう。やきいも屋を初めるんだ。」
「やきいも屋……。」
みさ子は珍らしく笑った。
「今年は、さつまいもが沢山出来てるんだぜ。あり余るほど出来てる。そこで、やきいも屋も初めるんだ。ほかほかの焼きたて……面白いじゃないか。」
「そんなもの、買う人があるでしょうか。」
みさ子はもう上の空の言葉だ。分らないのである。
「誰でも買うさ。珍らしいからね。おいしく焼いて、子供たちに安く売ってやれよ。女の子や男の子、小学校の生徒たちに、売ってやれよ。女学生にも売ってやれよ。若いお上さん、若い奥さん、みんなに売ってやれよ。そこから、人生の幸福が初まるんだ。」
私は悲しくなって、盃の上に顔を伏せた。
「まあ、たいへんな幸福ね。」
「そうさ。やきいもから幸福が初まる。だから僕は悲しいんだ。こんな、酒場なんかやめちまえ。やきいも屋になるんだ。ほかほかの焼きたて、幸福そのものじゃないか。」
みさ子は気を入れてじっと私を眺めた。私は顔が挙げられない気持ちだ。
「やきいもと、お酒と、なにか関係がありますの。」
「関係なんかあるもんか。酒なんてものは、酒なんて……飲むやつはみんなばかだ。幸福からの落伍者だ。そして、思い上りだ。やきいも……ただやきいもさ。」
私は一息に盃を干して、あとを銚子からつぐと、酒は溢れて、スタンドの上を流れ走った。その行方を見ていると、そこに、薄茶色のしなやかな革の手袋があって、それに酒が少し触れた。さよ子が駆け寄って手袋の露を払い、スタンドを布巾で拭いた。
今頃、十月にはいったばかりなのに、手袋はおかしい。手袋を受け取った男を見ると、いつはいって来たのか、黒のダブルの上衣に、赤っぽいネクタイをしめ、色眼鏡をかけた、長髪の若者なのだ。私をじろじろ眺めた。
「焼芋の先生、ひとの持ち物をよごしておいて、何か、挨拶がありそうなもんじゃねえか。」
まだ酔ってはいないらしい。
「まあ、酒でも飲もうよ。」
「何を。焼芋の肴で酒が飲めるか、挨拶はこうするもんだ。」
すばらしい早業だった。私は横面に平手の一撃を受けて、椅子から転げ落ち、尻もちをついた。頬に音はしたようだが、痛みはあまり感じなか
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