ねて、横田さんに自分の思いをうち明けたのだ。へまだったんだね。直接保子さんにうち明けた方がよかったかも知れないと、僕は思うんだがね。横田さんはそれを聞いて、非常に困ったものだ。何しろ、横田さんと保子さんとの互の気持が、可なり進んでる時なんだろう。それでも横田さんはああいう人だから、自分自身を一歩高い所へ置いて考えた末、保子さんの選択に任せるの外はないと結論したのだ。これは横田さんの人格者たる所以でもあるし、また一方からいえば、聡明なる所以でもあるのだ。なぜかって、保子さんの選択は初めから分りきってる。既に二人の間は、両方の親の了解もあるし、互の気持も進んでるし、それに、吉川さんの家は零落していたものだ。吉川さんは、詩人的素質を備えた天才肌の人だったそうだが、貧乏な天才詩人というものは、恋人にはいいか知れないが、良人としては不向きだね。人間に何となくどっしりした所のある横田さんとは、少し均衡がとれない。どの点から考えて見ても、保子さんは横田さんを選ぶにきまってる。
「所が、保子さんはなかなかその選択を与えなかったのだ。そして、二人に向って或る問いを発したものだ、あなたは私を恋人として愛するのか、もしくは良人として愛するのかって」
 村田はそこで言葉を切って、周平の顔を覗き込んだ。周平は変な気がしてきた。
「本当の話なのか。」と彼は尋ねた。
「本当だとも。そこが如何にも奥さんらしいじゃないか。」
 周平は黙って村田の顔を見返した。
「勿論保子さんのそういう問いは、」と村田は話し続けた、「僕等が考えるほど理智的なものではなかったんだろう。保子さんのうちには、君も知ってる通り、理性と感情とが一つに綯れ合って働いてゆくのだから。所がその問いに対して、二人はどう答えたと思う?」
 そして村田は眼を輝かした。
「横田さんはこう答えたのだ。愛に二つはない、私はただあなたを愛するきりだ。吉川さんの方はこうなんだ。私はあなたを恋人として愛する。そこで、保子さんは横田さんを選んでしまった……そうだ。その辺の機微は、僕も実はよく知らないんだがね。」
 周平は何だか狐にでもつままれたような気がして、ぼんやり村田の顔を見つめた。
「然しまあそんなことはどうでもいいさ。兎に角、横田さんの方が選に当ったと思い給え。」と村田は弁解するような調子で云った。「それから先は、例の通り、恋の勝利と敗北とだ。一方に輝かしい日が続くと共に、一方には惨めな日が続くのだ。吉川さんは、半ば自棄《やけ》になって、或る女の誘惑に陥ってしまった。而も失恋して間もなくのことなんだ。性格が弱かったんだね。その女というのが君、有名なあばずれなんだ。僕も或る処で一寸顔を見たことがある。美人でもない癖に、いやにつんと澄まし込んで、眼ばかり色っぽく働かしていた。元はカフェーの女中をしていたとかいう話だが、其後或る文学青年と同棲し、次には、或る新帰朝者――だか何だか分ったものじゃないが――それと同棲し、また其処を飛び出して、うろうろしてた所へ、吉川さんがひっかかったわけさ。すると、へまな時は仕方がないもので、その女が、妊娠しちゃったんだ。全く妊娠するような女じゃないんだがね。それから吉川さんの苦悶が始まったのだ。漸く母親の了解を得て――母親一人だったのさ――一緒に住むようになったのだが、男の児が産れて後は、吉川さんは惨めなものだった。女は始終飛び歩く。その上、母親や吉川さんと事毎に衝突する。子供は消化不良になって、乳母をつけて病院へはいらせる始末なんだ。吉川さんはどの位苦しんだか知れない。女の無駄使いのために、僅かな財産はすぐに減っていく。自分の未来は暗澹としてくる。その間に立って、子供の面倒をみながら、女といつも諍《いさか》いばかりしながら、女と別れることも出来ないで、じっと我慢していた吉川さんの心を思うと、僕は堪らない気がするよ。それが二年間も続いたのだ。二年目の終りに、女はとうとう逃げ出してしまった。吉川さんと合意の上だとの話だが、無理強いの合意なんだろう。なぜって、女もさすがに居堪らないとみえて、大阪の方へ行ってしまったそうだから。そして、それきり行方不明さ。また誰かを取捉えてるに違いない。高井英子とかいっていたが、それだって本名かどうだか分りゃしない。
「女と別れてから、吉川さんは子供相手に家にばかり閉じ籠っていたが、一月ばかり後に、急に死んでしまった。病名は急性脳膜炎だというんだが、自殺だとの噂もある。当時吉川さんは、深い憂鬱に沈み込んで、時々襲ってくる神経の苛立ちと興奮とを、酒でごまかしていたそうだが、その後では更に深い憂鬱に陥ったとの話だ。その死後、医学と薬理学との書物が本箱の中から見出されたそうだ。が兎に角、病死にせよ、自殺にせよ、吉川さんは俄に世を去ってしまったのだ。そして後に
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