は両親のことは一切口にしないようにと、横田さんとお約束してあるものでございますから……それに、横田さんへも一寸気兼ねなことがありまして、無いと云ってお断りしましたが、どうぞ悪く思わないで下さいませ。またいつかお目にかける時もございましょうから……。」
「いいえ、」と周平はその言葉を遮った。「御事情は私も存じております。」
定子は彼の眼の中を覗き込んだ。そしてやがて云った。
「いろいろお話申したいこともございますけれど……。」
そこへ、女中が砂糖湯を持って来たので、定子は口を噤んでしまった。そして彼女がその湯呑を取上げていると、保子と隆吉とが出て来た。保子は手に小さな風呂敷包みを持っていた。それを定子の前に差置くと、定子は黙って受取った。
「それでは、横田さんへどうぞ宜しく仰しゃって下さい。」と定子は云った。
彼女が立ち上って帰りかけると、周平は妙に心残りがして、皆の後へついて玄関まで見送った。隆吉が電車まで送ってゆくことになった。
二人が門の外に見えなくなってからも、周平はまだ其処にぼんやり佇んでいた。
「どうしたの、井上さん。」
周平は初めて我に返ったような心地で振り向いた。保子が彼の方を覗き込んでいた。彼の眼にじっと眼を見据えながら、口元で微笑みかけた。
「いい人でしょう?」
「ええ。」と周平は答えた。
「すっかり好きになったっていう様子ね。」
周平は何と云っていいか分らないで、ただ苦笑を洩した。そして、保子の後について座敷へ戻った。
「あなたは隆吉のお祖母さんに逢って嬉しかったでしょう。」
座につくとすぐに、保子はそういう風に尋ねかけてきた。
「なぜです?」と周平は反問した。
「なぜって、ただそんな気が私にはするのよ。」
揶揄するような眼が小賢《こざか》しく閃いた。かと思うと、彼女は急に真面目な調子に変った。
「あなたはこの頃大変隆吉と仲がいいようね。何を二人で長い間話してるの。」
「取りとめもないことをして遊んでるのです。」と周平は答えた。「大人《おとな》よりも子供を相手にしてる方が面白いと、そんな気特にこの頃なってきました。」
「それだけ?」
何がそれだけ? なのか彼には分らなかった。じっと見返した眼付でその意味を尋ねた。彼女はそれを構わず先へ云い続けた。
「あなたはこの頃変に捨鉢な気持になってやしなくって。」
その言葉はじかに彼の胸を刺した。然し彼は真剣な応対をするのが恐ろしかった。強いて空嘯いてみた。
「さあどうですか。」
「それでいいと思ってるの。」
「身を捨ててこそ何とかいうこともありますから……。」
「井上さん!」
保子はそう云って屹《きっ》となったが、唇をかすかに震わしたまま黙ってしまった。視線をちらと乱して、しまいにはそれを膝の上に落した。
「私は、」と周平は云った、「自分のことはよく分ってるつもりです。何にもごまかしてやしません。そして、お約束を立派に守ってゆく……守ってゆけるつもりでいます。」
「約束を守りさえすれば、他のことはどうでもいいというんですか。」
まるで怒鳴りつけるような調子だった。彼には何で彼女が苛立ってるのか見当がつかなかった。黙ってると、彼女はまた云った。
「いつまでも過ぎ去ったことにこだわっていて、表面《うわべ》だけ平気な顔をしているのは、自分で自分をごまかしてるのと同じだわ。」
周平は驚いて彼女の顔を見返した。――そういうごまかし方をしてるのは彼女の方ではなかったか。表面だけ平気な顔をして、彼を方々へ引張り廻しながら、内心では変に苛立ったり冷淡を装ったりするのは、自らごまかしてるのではないか。今日だって彼女の方から変に絡んできたのではないか。――彼女は少し歪めがちに唇をきっと結んで、眉根に小さな皺を寄せている。すっと刷いた眉がいつもより殊に美しい……と思う自分の心に周平は自ら慴えた。
「もう何にも云わないで下さい。これから真面目な途を進みますから。」と彼は誓った。
「そう。」と保子は気の無さそうな返辞をして、何やら考え込んでしまった。
その意外な変化に、周平はまた驚かされた。そして次の瞬間には、頬の筋肉が硬ばって泣き顔になりそうなのを、じっと押し堪えた。頭の中がしいんと静まり返った。
隆吉が戻ってくると、彼は気分が悪いと断って、逃げるように辞し去った。じかに迫ってくる露《あらわ》な保子の眼付と、疑問を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ変に鋭い隆吉の眼付とに、彼は更に脅かされた。
二十九
西の空に屯《たむろ》してる雲のために華かなるべき残照が遮られてる、ほろろ寒い佗しい秋の夕暮だった。周平は足を早めて下宿の方へ帰りかけたが、寂しいがらんとした自分の室が頭に映ると、今の苦しい心を其処へ持ち込むの
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