気分の赴くままに動き廻らせた。
そのうちに保子の像は、或る一つの姿を取って、其処で動かなくなってしまった。
それは、彼女が日記を読んできかしてくれた姿だった。桔梗の模様を浮出さした凉しげなメリンスの着物に包まれて、彼女の姿はいつもよりなお清らかだった。それが机に半身をもたせかけ、庇うように両袖で日記帳を押隠しながら、腰と筋頸とに軽いねじれを見せて振り向き、底の知れない輝きを含んだ眼付で、こちらをじっと眺めていた。彼は怪しい魅惑をそれから受けた。
夕食後庭を歩いていると、ふと、彼女のそういう姿が奥の室にあるような気がした。二階に寝転んでいたり、散歩から帰ってきたりしても、やはりそうだった。然し、女中に気兼ねしながら何気ない風で、そっと奥の室を覗いてみると、こちらから射す電燈の光りが、蔦の葉模様の襖に芒と映ってるきりで、室の中は薄暗くがらんとしていた。
或る日、昼間、女中が用達しに出かけた後で、彼は奥の室にはいってみた。それは殆んど保子が独占してる室だったので、彼はまだ一人で足を踏み入れたことがなかった。何かが期待せられるような心地でそっとはいってみると、中の有様は以前と少しも違わなかった。左奥の窓際に寄せて机が一脚置いてあり、上には硯やインキ壺がのっていた。壁に沿って箪笥が二つ並んでいた。床の間には、袋にはいった琴が片隅に立てかけてあり、他の隅に大きな鏡台があって、鏡の面には友禅縮緬の鏡掛が垂れていた。彼はそれらを一通り見渡したが、何だか非常に淋しかった。彼女の居ないのが物足りなかった。鏡の前に行って鏡掛をはね上げながら、自分の顔を映してみた。生気《せいき》のない衰えた顔付だった。鏡台の抽斗を開けてみた。櫛や簪や毛ピンが沢山はいっていた。次の抽斗には化粧壜が一杯はいっていた。どれもこれも使い古しばかりらしかった。その一つを取って嗅いでみた。褪せたほのかな匂いきりしなかった。
その時、玄関の方に人の足音がした。彼ははっとして、急いで室から出て、縁側に佇んだ。女中が帰って来たのだった。女中はすぐに台所の方へ行った。彼は漸く安心した。と共に、胸の高い動悸を覚えた。
その偶然のことが、後でひどく気にかかった。気にかかりながらも、心が惹かされていった。やがて彼は、保子の日記帳を探し出してやろうと計画してる自分自身に、我ながら喫驚した。それは、横田夫婦の信頼を裏切る行
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