大な何かが、実際にはあったのではないかという気がした。彼は暗い方へ暗い方へと想像を向けていった。殊に保子に就てそうだった。彼女が深い傷を心に負って、一人ひそかに苦しんでいる、そういう風に想像したかった。吉川の死が自殺の死であって、而も直接に保子と何等かの関係がある、そういう風に想像したかった。そして、この想像が自分の心に甘えていることを、周平は意識した。然し何故にそうであるかをつきとめない単なる意識だったから、少しも想像を抑制する力にはならなかった。
 悲痛な実は甘いいろんな想像にうみ疲れると、彼の頭の中には、隆吉の姿がしつこく浮び出て来た。頭の大きなわりに細《ほっ》そりとした体躯、凸額《おでこ》の中から睥めるように物を見る眼、小鼻の小さな高い鼻、細い腕、長い指、それらが変に不気味だった。きっとしまった口、恰好のよい長い顎、すらりとした頸筋、笑う時に出来る左頬の片笑靨、それらが如何にも可愛かった。平素何とも思わなかった隆吉の姿から、今その不気味な点と可愛い点とが、はっきり二つに分れて周平の頭に映じた。彼は愛憎の念に迷った。
 深く考えに沈みながら歩いていると、ばさりと音を立てて足に触れたものがあった。不意だった。ぞっと身体が悚《すく》んだ。寂しい通りに、軒灯の光りが淡く流れていた。青葉をつけた木の枝が一本落ちてる中に片足を踏み込んでるのだった。足を抜こうとすると、ばさばさと音がして枝が一歩ついてきた。またぞっとした。やけに枝葉を払いのけて、五六歩足を早めた。冷たい汗が腋の下に流れていた。
 彼はつとめて平静に返ろうとした。けれども、何かに追い立てられてるような不安さが消えなかった。そのことに気を取られているうちに、いつのまにか自分の下宿の前まで来ていた。つと中にはいった。喉《のど》が渇いていた。面倒くさいので、洗面所へ行ってそこの水道の水を飲んだ。
 自分の室にはいると、すぐに寝てしまった。遠くでするような軽い頭痛を覚えた。頭痛の合間合間に彼は、保子のことを縋るようにして考えた。悲しげに微笑みかけてくれるやさしい姿だった。
 然し、朝になると彼は、もうその幻に浸ることが出来なかった。清純な一徹な光りに澄みながら底に謎を含んだような彼女の眼が、じっと彼を眺めていた。彼は心の据え場に困った。

     八

「井上さん、あなたはこの頃何だか様子が変よ。心配事でもあるの
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