、母親と子供とが残った。」
 村田ははたと口を噤んで、何かを考えるような眼を見据えた。
 息をついてさっと吹く風と共に、大粒の雨が落ち始めて、それが瞬く間に沛然と降り注いだ。宵闇の中に妙に明るい雨脚が、軒や樹木に、どっと魔物のように落ちかかった。二人は縁側の障子を閉めて、ぼんやり雨音に耳を傾けた。心は他に在った。
「それから、」と村田はやがて語り続けた、「吉川さんの母親と子供――即ち祖母と孫とは、悲しい日を過した。お祖母《ばあ》さんにとっては、その子供が推一の慰藉であり、子供にとってはお祖母さんが唯一の頼りだった。そしてお祖母さんは、子供を育て上げることに残りの一生を捧げたのだ。
「この二人に次で、吉川さんの死から可なりの打撃を受けたのは、横田さんと保子さんとだった。直接関係はないけれど、心には可なり響いたらしい。それでも横田さんの方は、云わば勝利者なんだ。勝利者が敗北者の破滅に対して懐く同情は、勝利者にとって、いつでもさほど高価なものではない。然し保子さんの方は、心の奥に一種の傷を受けざるを得なかったのだ。たとい当面の責任者ではなくとも、間接の責任はある筈だ。……そういう訳で、二人の愛情は吉川さんの死から毒された。然し愛情というものは、傷ついた獣のように、痛手を受ければ受けるほど、益々激しく狂い廻るものなんだ。横田さんと保子さんとは更に深く結びついたらしい。そして、吉川さんの一周忌がすんだ翌年の春、結婚して新らしい家庭を持ったのだ。
「吉川さんの家の方では、お祖母《ばあ》さんが仕立物やなんかをして、つつましく暮していたが、それでも僅かな貯蓄は残り少なになるし、子供も大きくなったので、お祖母さんは大奮発をしたものだ。豪い人だと僕はいつも感心をしている。その大奮発というのは、子供を親戚の家へ預け、自分は他人の家へ針仕事などを主とする女中奉公をし、そしてとにかく、子供の未来の学費を残して置こうというのだ。
「お祖母さんのそういう殊勝な決心を聞いて、横田さんは、自分の家で子供を世話しようと云い出したのさ。その気持は僕には一寸分りかねる。第一に君、子供を始終側に置いとくことは、過去の記憶をまざまざと甦らすことで、横田さんにとっても、保子さんにとっても可なり痛いことだろうと思う。それによって二人の愛情を更に強く燃え立たせるというほどの、若い浮々した年齢でも時期でもないんだから
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