た。然しこちらから訪れて行くのは憚られた。あの約束は、単なる約束として心に秘むべきもので、それに頼って図々しい行動に出てはいけないような気がした。
 保子からは何の便りもなかった。彼は次第に憂鬱な絶望のうちに陥っていった。
 所が、或る朝――周平が下宿へ帰ってから十日ばかりの後――保子の葉書がふいに舞い込んだ。
 その朝周平は、いつもの通り遅く眼を覚した。もう廊下向うの雨戸を明け放してあった。枕頭《まくらもと》には新聞が投げ込まれていた。彼は眼をこすりながら、その新聞を取ろうとした。すると、新聞の上から疊へぱたりと落ちたものがあった。一枚の絵葉書だった。松が二三本並んだ砂浜の向うに、大きな波を捲き返してる広々とした海があった。周平はそれを一寸眺めた。下の方に刷り込まれてる大洗《おおあらい》という文字が眼に留った。彼ははっとした。急いで表を返して読んでいった。

 其後どうなすったの。ちっともお出でがないのね。御病気じゃなくって。御病気だったら見舞に上るわ。御病気でなかったらいらっしゃいよ。隆吉も待ってますから。あなたに見せたいものがあるのよ。
[#地から2字上げ]横田保子

 周平は葉書を手にしたまま飛び起きた。窓の戸を開け放った。涼しい空気が流れ込んできた。彼はまた其処に坐って、二度くり返して葉書の文句を読み直した。それからその名前をじっと眺めた。
 初めの驚きと喜びとの胸騒ぎが静まると、彼は変な気がしてきた。横田保子と口の中で云ってみた。見知らぬ人の名前にでも出逢ったような気持だった。彼にとっては、横田というのは主人|禎輔《ていすけ》の方のことであり、保子というのは――勿論横田夫人ではあるが――なつかしい「彼女」のことであった。横田保子と両方くっつけた名前を彼は嘗てはっきり頭に入れたことがなかったのである。彼はまた横田保子と口の中でくり返した。
 それに自ら気づいた時彼は、自分が如何なる地位に在るかをはっきり感じた。自分の態度をきめてかからなければならないことを感じた。
 もう横田の家から身を退くのが至当だと思い、保子との約束だけを心に秘めて自分一人の途を進もうと思ったのは、単なる気持の上のことだけだった。それが今は、保子の葉書をつきつけられた今は、ごまかしを許さない実際の問題となったのである。
 彼はその半日考えあぐんだ。然しいくら考えても解決される問題ではな
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