のだった。も一つの心は、個人と個人との境界を無視した温い抱擁的なものだった。
「自分に対する保子の心は、二つのうちの何れなのかしら?」と周平は考えた。考えようによって、どちらにもなりそうだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、両方だときめるのは、今の場合彼にはつらかった。彼は保子から、冷淡か温情かの何れかで遇して貰いたかった。峻烈な批判を加えられるか、或は温く抱擁されるか、何れかでありたかった。
「それは兎に角、自分は忘恩者でありたくない、」と彼は、問題をそのまま抛り出して、別な結論に辿りついた。そして、夫人へはこのままでいいとして、横田氏へは一言感謝の意を申して置きたかった。
 周平は、水曜の午後少し遅く出かけていった。
 横田は、週に四回商科大学で語学を講じていた。然し彼は元来文学者だった。折にふれて新聞雑誌に、外国文学の紹介をすることなどもあった。未来は批評を以て立つつもりだった。それで彼の周囲には、文学を愛好する青年の小さな群が出来ていた。その連中がいつとはなしに、水曜の午後から晩へかけて、横田の書斎に集ることになっていた。水曜が彼の最も隙な日だったから。
 周平は他の日にわざわざ訪問したくなかった。実は、隆吉の学課をみてやる月曜なら最も好都合だったが、その日横田は夕刻まで授業があった。それで、最も行き易い水曜を選んだ。
 門をはいって玄関に立った時、彼は先ず其処に在る下駄を見廻した。幸にも客は一人か二人位らしかった。彼は安心した。
「丁度村田さんが来てるのよ」と保子から云われた。
 彼は先ず保子や隆吉を相手にするつもりだったが、村田なら、その方へ行かざるを得なかった。
 横田と村田とは、寝転んで将棋をさしていた。二人共周平の方に一寸眼を挙げて「やあ。」と云ったきり、また盤面を見つめた。周平はその側に足を投げ出した。村田の方が少し上手だった。横田は負けを諦めかねて、幾度もさそうとした。
 周平はつまらなくなって、両手を頭の下にあてがいながら、仰向に寝転んだ。窓から青い空が見えていた。その狭い四角な青空の中に、白い断雲がぽつりと現われてきては、またすぐに飛び去っていった。風が少し出ていた。周平は軽い苛立ちを覚えた。立ち上って、書棚の隅から外字雑誌を取ってきては、その※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵を眺めたりした。

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