上ってきた、惨めな存在だという気がした。吉川の手記が頭の中に蘇ってきた。この子のために吉川はどんなに苦しんだろう、この子が生きてる間は吉川の苦しみも生きて残るのだ、保子の身にも暗い影がつき纒うのだ、とそんなことを周平は思った。彼の胸には、吉川と隆吉とは父と子であるということがぴたりと来なかった。孤児であるということも、彼の心を少しも動かさなかった。何故か? と彼は自ら反問してみた。答えは得られなかった。そして、じっと隆吉の寝姿を見ていると、不当な存在だと思えてきた。その不当な存在に対して、復讐してやりたいような気持になっていった。……そういう暗い気分に浸っているうち、彼は二三度保子からじっと眺められたのを感じた。隆吉を踏みにじって保子の前に身を投げ出したかった。坐ってるのが苦しくなってきた。それでも腰を落着けていた。如何にも執拗に坐り込んでるのが我ながら感ぜられた。そのためになお立ち上れなくなった。
「井上さん、」と突然保子が云った、「どうしてそう変な顔をしてるの。」
云われて始めて周平は、自分が泣き出しそうな顔をしてるのに気づいた。何気ない答えをしたかったが、その言葉が見つからなかった。まごまごしてる所を、保子からはじっと、隆吉からはちらと、両方から見られたのを知った。彼は咄嗟に心にもないことを云った。
「吸入をしてあげましょうか。」
「そう。」と保子はすぐにそれを引取って、隆吉の方へ屈み込んだ。「井上さんが吸入をして下さるから、おとなしくするんですよ。ね、いいことね。」
隆吉は彼女の方を見ないで、周平の顔をじっと見て、それから首肯《うなず》いた。周平は機械的に吸入器の用意をした。
隆吉は床の上に坐って、真白なタオルに包まれた。タオルから顔だけ出して、口を開きながら待っていた。保子がその後ろから軽く身体を支えてやった。周平は机の上に据えた吸入器を、隆吉の方へ向けた。食塩水の噴霧《きり》がさっと注ぎかかると、隆吉は咳き入った。それを一生懸命に押えつけたらしく、蒼い頬にかすかな赤味がさした。その上へ水滴が一面にたまっていった。睫毛の先の水滴は、瞬きをする毎にたらたらと頬へ流れた。唾液の交った水が、唇からすうっと糸を引いたように垂れてくるのを、保子がコップで受けてやった。隆吉はその中にあってじっとしていた。顔も渋めずにひたすら噴霧《きり》を吸い込むことにつとめてい
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