心中するかも知れないわよ。」
「ますます怪しからん。」
然し、桃代の言葉に、私はなにか不安なものを感じた。私の方についてではない。桃代の方についてであり、更に喜美子の方についてである。
私が黙って考えこんでると、桃代の方から打ち切るのだ。
「もうやめましょう、こんな話。……喜美ちゃん、どうしたのかしら。連れてくるわ。」
私は一人で飲むだけだ。
桃代は三味線を持って、喜美子を連れてくる。
「さっきのお詫びに、お稽古をしてあげるわ。梶山さんだから、いいでしょう。お座敷じゃないと思うのよ。でも、ほかのお座敷でなら、決していけないわよ。このお師匠さんが承知しないわよ。……何がいいかしら。梶山さんの……好きなもの……小鍛冶でもやりましょうか。」
喜美子はいつも、明るい顔で、明るい眼眸だ。糸切歯の笑みが消えると、桃代と向き合って、ぴたりと体勢がきまる。
桃代は三味線の調子を合せて、ちょっと間を置く。それから掛声と共に、爪弾きだが、二の絃と三の絃がいっしょに、チャンと響くと、喜美子の美しい声が謡いの調子をこなしてゆく。――稲荷山三つの灯し火明らけく。
そんなことが、私の心にしみるのだ。浅墓な感傷だろうか。私は涙を眼にためながら、なにか堪え難い気持ちで、立ち上って硝子戸を開く。すぐ眼の前に、白木蓮の大きな花が咲いている。もう暮れてしまった夜の闇に、青みを帯びて仄白く、造花のようにも見えるし、何かの化身のようにも見える。冷たい大気に漂ってるその香気が、やさしく私の肌を撫でる。私は何かに憑かれたような心地で佇んだ。
その白木蓮の花が、今、桃代の死体のわきに活けてある。桃代の死体は、柔かい布団の中にすっぽりと埋まって、形体も見分けがつかない。彼女はその体躯ごとにどこかへ脱け出してしまったかのようだ。
ちょっとひっそりとした一刻の合間だった。婆やさんがお茶をいれてくれるだけの時間に、私は告別をすました。身寄りの者だという中年の女が出て来て、言葉少なに挨拶をした機会に、私は席を立った。玄関に訪れて来た数人のわきを、私はすりぬけて、表に出た。喜美子はあとに居残ったらしい。
そして加津美の二階の室で、私は桃代の死をはっきり感じ、同時に、彼女の姿をまざまざと思い浮べた。私にとっては、彼女はそこにしか存在しないのだ。――そうだ、ほかの何処にも彼女はいない。その室にだけ、つまりお座敷にだけ、彼女はいるのだ。
その彼女は、いつも髪をきれいに結っている。どんなに乱酔してもその髪を乱さない。顔から肩にかけて、いつも白粉がぬられていて、決して素肌を見せない。水で洗ってもそれは落ちないだろう。眉が太く、眼が近視らしく、大まかな顔立だが、なにか巧妙な糸で操るような微妙な表情をしながらも、決して相好を崩すということがない。大きく衣紋をぬいた着附だが、襟元はきっちり合さって、帯は常に寸分の狂いもない位置に定着している。上半身は反り加減に、胸も背も板ででも出来てるようで、腰だけでしか屈伸しない。ぴたりと端坐する膝は、蝶番のようで、横坐りには片手を畳につかなければならない。その全体が、いつも香水の仄かな匂いをつけ、それが肌身にまでしみこんで、体臭というものがない。寝床にはいるにも、長襦袢に伊達巻をきりりと胸高にしめ、肉附の多い体躯を軽やかに横たえ、そしていつもきまった姿態を崩すことがない。――すべてが、一定の型にはめられている。
喪失したのは、そういう肉体だ。一定の型に訓練され馴致された肉体だ。それは桃代であろうか。いや誰でもよいのだ。それならば、あの桃代はどこにいるのだろうか。
さむざむとした思いで、一人考えこんで、飲んでいると、いつのまにか喜美子が来ている。じっと見返すと、喜美子も私の方をじっと見ていたが、ふいに、涙をはらはらとこぼす。声も立てず、肩も震わせず、ただ涙だけが流れる。自然に雨が降るような泣き方だ。桃代の枕頭にいた時と同じだ。
その涙がやむのを待って、私は尋ねた。
「喜美ちゃん、桃代は亡くなる時に、何か言いはしなかったの。」
喜美子は頭を振る。
「何にも言わなかったの。」
「ええ。だけど、その前に、しんみり言ったことがあるわ。」
「どんなこと。」
「男のひとに、決して肌身を許してはいけないって、そう言ったわ。一人のひとに許すと、また、二人めのひとに許すようになる。二人めのひとに許すと、また、三人めのひとに許すようになる……。」
そして彼女は宙に眼を据えて、何かを思い出そうとする様子で、言い続ける。
「それから、たしかなひとと結婚なさいと言ったわ。そしてまた言いなおしたの。一人のひとと結婚すると、また、二人めのひとと結婚するようになる。二人めのひとと結婚すると、また、三人めのひとと結婚するようになる……。」
「それで。」
「それだけよ。そして桃代さんは笑ったの。だけど、あたし、なんだかへんな気がして、忘れられないわ。」
「なあに、冗談だったろうよ。」
私は心にもないことを言ったものだ。桃代は喜美子を本当に愛していたのかも知れない。誰の手にも渡したくなかったのかも知れない。然しそれならば、喜美子を抱きすくめるとか、頬ずりをするとか、そんなことをどうしてしなかったのだろう。手を握られたこともないと、喜美子は言うのである。或は、肉体と肉体との接触などを桃代は極度に蔑視したのでもあろうか。
私は桃代の肉体を失った。だが、桃代はいつもまだその辺にいるような気がする。その桃代のために、喜美子に対してはただ、夢のような空しい愛情だけを持つことにしよう。喜美子はそれに丁度ふさわしい。白木蓮の花のような女だ。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「芸術」
1947(昭和22)年10月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
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