いな小川の流れが必要だ。――そのようなことを、私は喜美子を相手に独語するのだ。喜美子は微笑みながら私の言葉を聞いてくれる。ただ聞くだけで、はっきりした反応は示さない。然し彼女自身、田舎について何よりも小川のことを記憶しているではないか。その記憶を嬉しく思い、それに頼って、私は私の独語を続けるのだ。
独語の合間に、振り向いてみると、彼女は小川のほとりにでもいるかのように楽しそうだ。その眼眸の清らかさが、肉附や皮膚の薄い顔の明るさをいっそう際立たせ、片方の細長い小さな糸切歯が、薄い膚の微笑みの可愛さをいっそう際立たせている。その全体が、なにかしら運命に対する抵抗力の弱さ、つまり薄命なものを思わせる。私が庇うようにかき抱いてやったら、彼女はどうするだろうか。
私が口を噤むと、彼女も黙っている。買物袋を膝にかかえ、白いハンケチを持ちそえ、赤い帯をしめ、かすかに化粧の香りをさせてる、都会の娘だ。田舎の娘ならば、石に腰掛けて夕日を眺めるなどは、退屈に違いない。――夕日は薄い雲に包まれ、円盤のようにくるくる廻りながら、速かに沈んでゆく。冷い風が地面に沿って足下を流れる。
「少し歩こうか。」
「ええ。」と彼女は答える。
「もう帰ろうか。」
「ええ。」と彼女は答える。
どちらにしていいか、私の方でまごつくのだ。ただ、そこで彼女と別れてしまうことは、しにくい。私は彼女について行く。加津美までついて行く。
加津美へは、喜美子は裏口からはいるが、私はそうはいかない。表からはいれば、座敷へ通されるし、座敷へ通ればお客さまだ。お島さんが万端の面倒をみてくれるし、お上さんも顔を出すし、黙っていても桃代が呼ばれるだろう。
「ちょっと、一人で考え事をしたいから、酒だけを頼みますよ。」
ぬるい炬燵に半身をもたせて、夕暮の一刻を、とりとめもない感慨に耽るのだが、なにか場違いな心地で落着きがない。逃亡か……酔いつぶれるか……。そこへ、喜美子がお銚子を持って来ると、私はもう他愛なくにこにこしてしまう。
「まあ、電気もつけないで……。」
喜美子は薄暗いのが嫌いだ。そして私は、彼女に電灯をつけてもらうのが好きだ。
「また、考え事をしていらしたの。」
「うむ、ちょっとね。さっき、焼け跡で、だいぶ長く石に腰掛けていたものだから、風邪でも引きはしなかったろうかと思って……。」
「あら、済みません。御免なさい。」
「僕のことじゃないよ。喜美ちゃんが風邪を引きはしなかったろうかと……。」
彼女は眼を二つ三つ大きくまたたいて、私を見た。
「だから、一杯飲むといいよ。」
彼女はちょっとためらって、そして微笑む。
「一杯だけよ。」
その一杯を、幾度にも区切って飲んでから、ねだるように言う。
「桃代姐さん、呼びましょうよ。」
喜美子の口から、桃代姐さんと、桃代さんと、二通りの言葉が、ごく自然に出てくるのだ。これは他の者には普通にないことだ。姐さんがつく方は、お座敷の場合、つまり芸者としての場合であり、それがつかない方は、ごく親しい気持ちで信頼する場合らしい。その二通りの呼名に、私はへんに気持ちがこだわるのだが、それを喜美子へは説明のしようもない。
「ねえ、いいでしょう。」
喜美子の言うことには私は逆らえないのだ。私が頷くと、彼女はすぐに立ってゆく。
桃代姐さんが来るとなれば、私はじりじりと追いつめられて、酔っ払うより外はないのだ――。あの時だってそうだった。もっとも、あの時は初めから、私も彼女も酔っ払っていた。雪が降っていて強いのを飲んだのだ。
雪の夜はわりに温いというが、その夜はしいんと底冷えがした。富久子が帰っていってから、お上さんも顔を出し、桃代はもうほかへ廻るのは嫌だと腰を落着け、三人で炬燵にあたりながら、よもやまの話に耽った。丁度カツミをやめたばかりのところだったので、あれの内実は喫茶店だったのか酒場だったのかというようなことから、喜美子のことにも話が及んだ。
「もうとって十八ですものね。ゆくゆくは養子を迎えるつもりですけれど、それまでどうしたものかと迷ってるんですよ。」とお上さんは私に向って相談するように言うのだ。
「いまさら芸者に出すわけにもゆきませんし学問をさせるわけにもゆきませんでしょう。芸事と言えば、あの通りあっちこっち生噛りですからね。」
桃代はウイスキーをぐっと飲んで、じれったそうに言う。
「お上さんて、喜美ちゃんのこととなると、意気地がないわね。今のままでいいじゃないの。」
「そうでしょうか。」
「そうにきまってるわ。ここの娘さんでいいじゃないの。」
「そりゃあね、わたしがこれから十年も二十年も生きてるとすれば、それでいいんだけれど、この節、へんに胃が痛むんでね……。」
お上さんの胃が痛むのは、いつものことで、よく知ってる者には口癖としか聞えない。私は笑いだした。
「胃が痛むぐらいで、死にゃあしませんよ。」
だが、そのあと、私は坐り直して言ったものだ。
「たとい死んでも……お上さんが今日亡くなっても、明日亡くなっても、喜美ちゃんのことなら、僕が引き受けますよ。喜美ちゃんとなら、僕は結婚してもいい。妻が亡くなったあと、僕は断じて再婚しないつもりだったけれど、喜美ちゃんとなら結婚してもいいな。但し、ここの養女じゃあ嫌ですよ。ただ、喜美ちゃんとだけ……。」
私は真面目だかふざけてるのか、自分でも分らなかったが、桃代も私の調子に乗ってきた。
「梶山さん、強がったってだめよ。富久子さんと浮気も出来ないくせに、喜美ちゃんと結婚するなんて……。」
「浮気をしないから、結婚するのさ。」
「だめよ、梶山さんじゃあ。第一、年があまり違いすぎるし、何から何までつりあわないわ。だから、喜美ちゃんと結婚するなんて、それもやっぱし浮気じゃないの。そんな浮気なら、わたしが封じちゃうわよ。石塚さんと同じことよ。」
石塚のことなら、私もだいたい知っている――。大商店の二男坊とかで、年も若く顔立もととのっていて、きれいにとかした髪をポマードで光らしていた。カツミによく現われて、甘いものや辛いものを飲んでいった。しんから酔っ払ってることはないが、いつも適度に酔ってる風をしていた。しばしば、何か手頃なものを、特別な菓子とか特別な石鹸とか、喜美子に持って来てくれ、ゆっくり話しこんでゆき、また、映画や芝居へ連れ出そうとした。その石塚が、喜美子に対して、次第にしつっこく大胆になってきた時、桃代は彼を或る待合へ誘い込んで、小秀という若い妓とくっつけてしまった。それからカツミで、石塚に出逢うと、どうして小秀さんを連れて来ないかと、そんなことから、巧みな言い廻しで、彼と小秀との仲を皆に披露してしまったのだ。小秀の方は、身体で稼いでいる芸者のこととて差し障りはないが、石塚はへんに照れてしまい、やがてカツミに姿を見せなくなったらしい。――そういうことをした桃代の気持ちが、私には分らないのだ。
彼女の顔をじっと見ると、彼女もたじろがず見返してくる。
「君はまったく、おかしなひとだよ。」
「どうして。」
「喜美ちゃんのこととなると、すぐ夢中になるからね。」
「妬けるのよ。どうやら、同性愛みたいだわ。」
「ばかなことを言ってる……。」
「いいえ、ほんとうよ。わたしの方が真剣だから、男の浮気から護ってやるの。ねえ、お上さん……梶山さんだって、浮気だからだめよ。」
「浮気でなかったら、どうする。」
「うそ、うそよ。ほかの女とだって、分りゃしないわ。」
「ほかの女と浮気なんか、するものか。」
「決してしないの。」
「しないよ。」
「じゃあ、わたしとなら、どう。浮気しないの。」
「そうね、君となら、そりゃ分らん……。」
「あとで後悔するわよ。」
「君こそ、あとで後悔しなさんなよ。」
お上さんは、空の銚子を持って席を立った。
「まあまあ、お静かに願いますよ。」
食卓に肱をついてふらふらしてる私の肩を、桃代は捉えて、ぐいと引き起すのだ。
「梶山さん、ほんとに喜美ちゃんが好きなの。」
「うん、好きだよ。」
「どんな風に好きなの。」
「どんな風って……別に愛してるわけじゃないが、ただ好きだよ。本当のことを言えば、喜美ちゃんを見てると、今にたいへん不幸なことが喜美ちゃんに起りそうで、なんだか、胸が切なくなる……そんな風でね……。」
「それ、ほんとなの。」
桃代は私によりかかるようにして、そして突然、すすり泣くのだ。私はびっくりして、彼女の肩をかかえながら、喜美子はもしや彼女の身寄りの者ででもあるのかと、尋ねてみたが、彼女はもう泣きやんできっぱり答えた。
「いいえ、全くの他人だけれど、でも、わたし、ほんとに好きなの。」
そして彼女は押っ被せてくるのだ。
「さあ、話して下さい。喜美ちゃんのこと、なんでも話して下さい。わたしも話すわ。」
おかしなことに、喜美子はもうどこか遠くにいて、私達だけがそこに取り残され、酔いつぶれかけていた。お上さんが銚子を持ってくると、桃代はくずれた姿態のままで言う。
「お上さん、許してね。わたしたち、喜美ちゃんに結ばれたのよ。喜美ちゃん、どこにいるの。連れて来てよ。」
来るものか、遠くに行っちゃった、と私は思うのだ。そして桃代が、非常な重さでのしかかってくる。その太い眉、赤い唇、ぶ厚い耳朶、ちょっと毛の乱れてる襟足、そして何よりも、近視らしいくるっとした眼が、それぞれ別々に私の眼の前に廻転する。そしてそれらが一つ所に中心を求めて静まり返ると、彼女はもうそこに投げ出されてる一塊の肉体に過ぎなかった。
その肉体は、ただ柔かく温かくぼってりとして、そして行儀がよいのだ。意志も感情もないもののように、私の前に惜しみなく自分を投げ出している。――その夜から、私は幾度その肉体に取り縋ったことか。強い快楽もなかったが、倦きることもなかった。
桃代はその土地では、顔の売れた姐さん株で、気儘にひらのお座敷だけを勤めていた。私との仲は他へは内緒なのだ。だが加津美では公然のことで、喜美子の前でも遠慮はなかった。喜美子は私達の間を当然とでも思ってるらしく、或は寧ろ喜んでさえいるらしく、にこにこと楽しそうに私達二人を見る。私としては、失恋ではないが、失恋に似た感じだ。喜美子はもう手の届かないところにいるようでもあるし、すぐ掌の中にいるようでもある。なんだか焦れったいのだ。だから、焼け跡の野原に連れだして、夕日を眺めながら、彼女を相手に独語もするのだ。――喜美子はそんなことには頓着しない。梶山さんといえば、すぐに桃代姐さんだ。ああいう独語のあとでも、桃代姐さんだ。
桃代はやって来るのに手間取った。来た時は、少し酔っていた。ちょっと指先をつき、挨拶をして、食卓の横手にひたと坐る、それまではまあ形式だが、それから先もいやにしんみりしている。
「梶山さん、わたし今日はあやまるわ。御免なさい。」
私の方は見ないで、眼を伏せている。
「すこし、喜美ちゃんをいじめすぎたらしいのよ。」
「そんなことなら、僕にあやまることはないじゃないか。」
「そうだけれど、梶山さんにも関係があってよ。昼間、焼け跡で、梶山さんと何の話をしてたかと、いくら聞いても、何の話もしなかったと言うんでしょう。長い間二人でいっしょに腰掛けていて、口を利きあって、それで何の話もしないなんて、そんなことがあるもんでしょうか。でも、どうやら喜美ちゃんの言うのがほんとらしいわね。」
「ああ、あれか。なるほど、喜美ちゃんはうまいことを言うね。野原のことや、川のことを、僕が独りで饒舌ってたんだ。喜美ちゃんは聞いてたかどうかも分りゃしない。まったく、何の話もしなかったわけだ……。君も見たのかい。そんなら、声をかけてくれたっていいじゃないか。」
「しばらく立って見てたわ。でも、声をかける隙がないんですもの。」
「声をかける隙がない……なんだい、それは。」
「何と言ったらいいかしら……。まあね、二人で、心中の相談をしてるとか、そんな風で、声をかける隙がないのよ。」
「ばかだね、そんなことを……。」
「でも、わたしが男なら、喜美ちゃんと
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