、声を立てずに泣いた。雨が降るような自然な泣き方だ。
私は数秒、死顔を見た。殆んど生前通りだった。誰がしたのか、唇には紅がぬってある。眼も凹んでいず、閉じた瞼に、長い睫毛が並んでいる。ただ、頬の肉附が、指で押したらそこだけ凹みそうな工合だ――。急性肺炎で倒れてから三日間、手当のひまもないほど急に、心臓の働きがとまってしまった由である。
「桃代さんが、急に、亡くなりましてね……。」
私の顔色は見ないで、独語のように、加津美のお上さんは言った。
「お別れに、いらっしゃるんでしょう。……様子を見てくるわ。」
喜美子は一人できめて、向う隣りの桃代の家へ駆けだしていった。
そして私は喜美子に案内されて、桃代に別れに行ったのだが、気持ちは、悲しみではなく、なにか大きな喪失感だった。前々日、加津美で、桃代が病気なのを聞いた時、そして一人で飲んでいた時、へんな肌寒さを予感のように感じたものだが、それも心配の種にはならなかった。それから、彼女の寝姿を前にして、ただ、何かがなくなった、という気持ちにぴたりと落着いた。――彼女の肉体がなくなったのだ。
油単のかかってる箪笥、覆いのしてある鏡台……、
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