はてなと思って気がつくと、長火鉢の位置が変っていた。工合悪く据え直したものだな、という思いと一緒に、妻の顔付が頭に浮んだ。もう寝たのかなとは思ったが、「おい春子、」と呼んでみて、ひょいと顔を挙げると、眼の前に、室の入口の敷居の所に、背のすらりとしたハイカラな女が、眼を真円く見開いて立っていた。その威に打たれたわけではないけれど、私はぴょこりとお辞儀をした。
「いらっしゃい。あの……妻は何処へか……。」
 云いかけているうちに、私は突然はっと気がついた。見ると向うの隅には、女中らしい見馴れない女が、笑ってるのか泣いてるのか分らない顔付で、私の方を見つめて立っていた。そして室の中の有様が、長火鉢から茶箪笥から釘に懸ってる衣服まで、自分の家とは全く様子が異っていた。しまった! と思うと同時に度を失って、もうどうにも我慢が出来なくなって、脱ぎ捨てた帽子とマントとを引掴み、「失礼しました、」と云い捨てながら、前後の考えもなく表へ飛び出してしまった。
 私は酔もさめて、よく眺めてみると、自分の家と隣りの家とを間違えて、のめのめはいっていったのだった。そして長火鉢の前に坐り込んだばかりでなく、恐らく細君に違いないあの女へ向って、何という挨拶をしたのだろう!……私は足音を偸んで、自分の家の前を通り過ぎ、暫くしてからまた戻ってき、門を開いて閉めるにも、玄関の格子を開いて閉めるにも、出来るだけ音のしないように注意して、なおその上に息までこらして、茶の間へはいっていった。針仕事していた妻と、何かやはり繕いものをしていた女中とが、私の気配を感じてか、ひょいと振向いて私の方を見た。
「まあ、あなたは……。」
 妻がそういうのを黙って見返した。
「どうしてそうこっそり帰っていらしたの?」
 それだけのことだったか、と私は幾分安堵の思いをして、帽子やマントを脱ぎ捨てて其処に坐った。そして気を落付けるために茶を飲んだ。
「あら、お羽織は?」
 喫驚して自分を顧みると、羽織を着けていなかった。
「しまった!」と独りでに声が出てしまった。
「どうなすったの?」
「忘れてきた。」
「え、何処に?」
「隣りの家に。」
「お隣りですって? まあどうして?」
 そこで私は、酔ったまぎれに隣家へ飛び込んで、そしてまた飛び出してきた顛末を、頭にぼんやり残ってるまま、話してきかせなければならなかった。妻と女中とは、
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