して顔を見てみたい、というより寧ろ、その生活を覗いてみたい、そんな気がしきりにしてきた。と共にまた、向うから自分達の生活を透し見られてはすまいか、何もかもすっかり聞き取られてはすまいか、そんな不安も一方に萌してきた。互に矛盾した気持ではあるが、それが一緒にこんぐらかって、変に私を囚えてしまった。
「あなたはどうしてそう、お隣りのことばかり気にしていらっしゃるの?」と妻は私に尋ねた。
「余り家の形が似てるからさ。」と私は答えた。
 然しそればかりではなかったらしい。そして、その自分にも分らない何かが、やがてはっきり形を現わしてきた。
 或る土曜日の晩だった。一度家に帰ってきた所を、四五人の友人と町で夕飯を食いに出かけ、飯だけで済すつもりなのがつい酒になり、酔が廻ると長引いて、それからも一軒寄って飲み直し、皆と別れて一人家の方へ帰ってゆく時には、私はもうすっかり酔っ払っていた。それでも気は確かだった。そして街路に明るくともってる電気や瓦斯の光のように、頭の中も明るく輝き渡っていた。電車の中や大通りにつみ重ってる人の顔が、どれもこれも皆親しみ深くて、そしてまた物珍らしかった。大きな石をめくって、その下に巣くってる蟻共が、驚き騒ぐのを見るように、この都会の人家を中天に巻き上げて、無数の人が右往左往するのを見たならば、さぞ面白いことだろうと、そんなことを考えていた。
 空は茫と霞んで、星が淡々しかった。なま温んでる空気が横町にはいると処々に、咽せるような新緑の香を湛えていた。いい気持の晩だった。しっとりと落付いていた。私はいつまでも歩き続けたいのを、家に帰ることが義務ででもあるかのように、遠廻りもせずに帰っていった。
 家の近くまで来ると、急に気が弛んだせいか、足がふらふらするのに気付いた。そしてふとよろけかかったのを、手先で門につかまって、立直りざまがらりと引開け、その余勢でぴしゃりと閉めた。そして玄関までの石畳を、前のめりにすたすたと歩いて、格子を勢よく引開けたが、玄関の三和土《たたき》に足がかりを失って、右左によろめいたのをきっかけに、頭の中もふらついて、眼の前のものがごっちゃになった。それでも私は戸惑いをせずに、勝手知った茶の間へ通った。帽子とマントとを脱ぎすてて、次に羽織まで脱ぎ払って、長火鉢の前に腰を下し、先ず一服と煙草を吸ってみた。
 所が、妙に勝手が悪かった。
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング