てそういう気持が、まだすっかり納まりきらないでいる、その日の晩、私は友人と二人で或るカフェーにはいって、つい気になるまま、引越し以来の顛末を話してみた。そして実は、いつも真面目くさってるその友人から、きっぱりと心が落付くような言葉を、それとなく期待していた所が、友人は私が話し終えるのを待って、変に眼をぎらつかせながら云った。
「そりゃあ面白い。実を云うと、僕はその方面では常習犯でね、自分一人かと思って、少し心細がってた所だ。」
「常習犯だって?」
「まあそうだね。……ただ漠然と云ったのでは分るまいから、詳しくその気持を話してみよう。」
そして彼は、珈琲でぐっと喉を濡おしてあたりをじろりと見廻して、それから話しだした。
「君もよく知ってる通り、僕は一体陰気で無口で沈みがちな男だ。所がどうかした機会《はずみ》で、急に快活に陽気になることがある。その時の僕の心持は丁度、今まで曇ってた空が俄に晴れて、美しい日の光が一面に降り注いでくるようなものだ。そして僕は非常に愉快な軽やかな気持になって、大抵の用なんかは忘れてしまって、浮かれたように街路《まち》を歩き廻るのだ。
「人が沢山通ってる、実に沢山通ってる。その顔がみな親しく感じられて、おい! と僕は呼びかけてさえみたくなる。ばかりならまだいいけれど、とんだ思い違いをすることがよくある。通りすがりにちらと見た顔が、どうも或る知人の顔だと思えてくる。で後を追かけていって、そっと横から覗いてみると、そいつが人違いなんだ。向うは変な顔で見返すし、僕は極りが悪くなって、そのまま黙って逃げ出してしまう。然しその後まで、何だか気になって仕方がない。実際その人は僕の知人であるのに、僕も向うも、何かの調子で他人だと思い違えたんじゃあるまいかと、そんな風に思われるのだ。
「それからまた、こういうこともある。向うから来る人の顔に、確かに見覚えがあるような気がする。それも非常に親しい記憶なんだ。ただその名前だけが、どうしても思い出せない。そのうちに、だんだん近寄ってくる。そして僕は帽子に手をかけて、お辞儀するでもなくせぬでもない、中途半端な態度を取ると、向うでは素知らぬ顔で通りすぎてしまう。呆気にとられてその後姿を見送ると、やはり僕の方の思い違いらしいんだ。と云って、そうばかりでも済まされない気持がする。
「一体君、他人の空似ということが、そう度々
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