白藤
――近代説話――
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)八手《やつで》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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草光保治は、戦時中に動員されて外地へ渡り、終戦後復員されて、二ヶ年半ぶりに[#「二ヶ年半ぶりに」は底本では「二ヶ月半ぶりに」]東京へ戻ってきました。
「東京もずいぶん変ったでしょう。」
戦争の話やその他の話の末、周囲の者がきまって彼に向ける言葉は、それでした。東京もというのは、日本も、時勢も、人々も、その他いろいろなものを含めてのことでした。それに対して彼は、曖昧な微笑と曖昧な言葉とを返しました。
「そうですね……。」
彼はなんだかぼんやりしていました。頭脳の調子が鈍っているようでした。その代り……ただ、まじまじと眼を見開いていました。すべてがふしぎに新らしい、そういう気持ちでした。
そして彼は、母の髪の中に、多数の白髪を見ました。父の手の甲に、隆起した静脈の網目を見ました。妹の顔に、雀斑が濃くなったり淡くなったりするのを見ました。姉の幼児に、長い睫毛を見ました。庭の木斛の葉に、雀の白い糞を見ました。御影石の門柱に、新らしい欠け跡を見ました。そのほか、無数のものを見ました。それからまた焼け跡の耕地に、麦の葉がそよいでるのを見ました。電車の腰掛に、はみ出てる藁屑を見ました。廃墟のビルヂングに、三十度も傾いてるコンクリートの壁を見ました。焼け跡のあちこちに、湯屋の煙突だけがたくさんつっ立っているのを見ました。そのほか、いろいろなものを見ました。それからまた、この広い荒野のなかに、ぽつりぽつりと建てられてるバラック小屋を見、ぎっしり立ち並んでる古い日本家屋の聚落を見、高層な洋式建物が軒を連ねてるのを見ました。或る処には、人影もない寂寥を見、或る処には、群衆の雑沓を見ました。群衆のなかには、他国の兵士も見ましたし、また、長途の困難な旅行者のように荷物を背負ってる人々を見ました。そのほか[#「見ました。そのほか」は底本では「見ました。 そのほか」]、さまざまなものを見ました。
それらのものが雑然と積もり重なって、異邦にあるような思いをさえ起させました。その思いがますます、草光保治に眼を見張らせました。
然し、如何に眼を見張ったとて、やはり、日本が祖国であり、東京が郷里であることには、聊かの変りもありませんでした。ただ、祖国であるその日本が、郷里であるその東京が、ふしぎに変って感ぜられるのでした。戦争により、殊に空襲により、二ヶ年半の間に相貌が変った、というばかりでなく、草光保治の内部にもなにか変ったものがありました。記憶が薄らいで眼が冴えてくる、というような状態にありました。
そういう異邦人めいた感懐のなかに、ぽつりと、淡い灯をともしたような、一の心像がありました。縁側に踞まってぼんやり庭を眺めている時など、それが浮んできました。焼け跡を散歩しながら、嘗てはその辺からは見えなかった富士山の姿を、西空はるかに見出して、ふと足を止め、しみじみと眺め入っている時など、それが浮んできました。
その心像が、いつ胸の中に飛びこんできたのか、草光保治にはよく分りませんでした。帰還の途中、大船と横浜との間の列車の窓で……ということははっきりしていましたが、実は、必ずしもそれに限ったことではなかったようでした。
その時、彼は車窓にもたれて、身も心もぐったりしていました。東京の家のことや人々のことを考えるのも、夢の中でのような心地でした。そしてただうっとりと外の景色に眼をやっていました。丘陵地帯で、眼界は狭まったり広まったりしました。鋤き返した土地、麦の伸びてる土地、新緑の木立、八重桜の花、ひっそりしてる人家……それらの中に、一点、桜の花より更に真白なものがありました。白藤の花で、生籬にかこまれたひそやかな家の軒先に、余り長からぬ房をなして垂れていました。広い棚を拵えずにただ支柱で支えられてる藤蔓、その蔓から群がり垂れてる真白な花、それを軒先に持ってる清楚な家、ただそれだけのものですが、その白藤の余り長からぬ花房とその住居のひそやかさとが、一つに融け合って匂っていました。
それはすぐに車窓から飛び去りましたが、草光保治はなおその姿を心で眺め続けました。他の何処かで度々見たもののようでもあり、長く夢みていたもののようでもありました。
その心像が胸の奥にひそんで、時折、飛びだしてくるのでした。
白藤の花とその家……そこに彼女の面影がありました。忘れるともなく忘れはしたが、然し忘れかねる彼女であり、細川美代子と名前を言うには、もう余りに遠い彼女でした。すべてが変りすべてが新らしく眺められる環境のなかで、遠い彼女だけが昔のままの面影を保っていました。
細川美代子は、少しも人目につかぬ娘でした。普通の背丈で、肥ってもいず痩せてもいませんでした。容貌も尋常で、美しくもなく醜くもありませんでした。性質も温良なだけで、特別な長所も短所もありませんでした。大勢の人中に置いても、見勝りもせず見劣りもせず、つまり、少しも人目につかない娘でした。
目黒駅近くの閑静な家に、彼女は住んでいました。両親と弟とがありました。戦争前、中日事変中に、兄は召集されて出征していました。
その目黒の家を、草光保治は時々訪れました。母方の縁続きの間柄でありましたし、美代子の兄の耕一とは友人でありました。耕一が出征してからも、美代子とは気安く話が出来ましたし、弟の耕次が高等学校の入学試験をひかえていましたので、その質問にも応じてやりましたし、蓄音器の、いろいろなレコードもありました。
ところが、二つの不幸が美代子を見舞いました。
一つは、兄の戦死の公報でした。乗り込んでいた輸送船が沈められて、彼は赤道附近の太平洋の中に消えたのです。
も一つは、彼女自身の病気でした。初めは単なる感冒とばかり思われていたのが、肋膜炎の症状を呈してき、やがて、可なりの肺浸潤が発見されました。微熱が続き、食慾が衰え、皮膚が美しく透いてきました。そして彼女は自宅で、閑散な日々を送って静養することになりました。しきりに書物を読みたがりましたので、草光保治はいろいろなものを持っていってやりました。それを彼女は甚だゆっくりと読み、読んだあとから忘れてゆくようでした。同じ書物を数回、間をおいて、謂わば忘れた頃に、繰り返し読むこともありました。
「またそれを読んでるの。」
「ええ、すっかり忘れたんですもの。」
そのような対話が、微笑のうちになごやかに交わされました。
ただ一つ、白藤の木に、彼女の心は深く繋がれてるようでした。兄の耕一が応召入隊の前に、植木屋から買ってきたもので、一米半ばかりの古い幹に、真白な花をふさふさとつけていました。それが、鉢に植わったまま打ち捨てられて、次の年に三つ四つの花房をつけただけで、もう蕾を出さなくなりました。その白藤を、美代子は俄に発見したかのようでした。防空壕を掘りに来た人に頼んで、鉢から地面に移し植えてもらい、大きく伸びても差支えないほどの支柱を拵えてもらいました。
或る日、草光保治が訪れてきますと、美代子は小さなシャベルで、藤の木の根本を掘り返していました。
「魚の頭や臓物を埋めるのよ。来年はきっと、たくさん花を咲かせるわ。」
彼女は白く透いた頬に、弱々しい然し神経のこもった笑みを浮べました。
そこは、庭の片隅、心持ち斜面をなしてる上手、寒山竹の茂みを横手にひかえてるところで、枯れた自然木の高い支柱の下半分ほどに、藤の青葉がからみついていました。
保治は肥料埋めを手伝いながら、藤の青葉を見て言いました。
「蔓を伸ばすのは易しいが、花を咲かせるには、技術がいるよ。」
「技術って……どんなこと。」と美代子は無邪気に尋ねました。
「花がたくさん咲いてる藤棚などを、よく見てごらんよ。花が出ているのは、大きな古い蔓からだよ。若い細い蔓からは、花は出ない。また、大きな古い蔓でも、若い蔓をたくさん伸ばせば、花は出ない。つまり、こういうことになるんだよ。古い蔓から、新らしい芽が出る。その芽が、若い蔓になって伸びてゆくか、蕾になって花を咲かせるか、どっちかだね。それが、自然の技術だよ。」
美代子は黙って聞いていました。
「伸びるだけ伸びた大きな藤蔓は、もうそれ以上伸びる必要がないから、新たな若い蔓を伸ばさないで、ただ花だけ咲かせるよ。ところが、植木鉢なんかに植わってる藤蔓は、いくら古くても、小さく刈りこまれているから、まだたくさん伸びたがる。蕾といっしょに蔓の芽を出す。だから、蔓の芽をもぎ取って、蕾の芽だけを発育させなければならない。植木屋はみなそうしてるよ。これが人工の技術だよ。」
「それから……。」と美代子は尋ねました。
「その二つだけ。それきりないよ。」
「そんなら、わたし、蔓を伸びるだけ伸ばしといて、あとは、その……自然の技術に任せて、花を咲かせることにするわ。」
「然し、幾年もかかるよ。」
「幾年かかってもいいわ。だけど、来年も咲かせないの。その、なんとかいう……人工の技術、それで咲かせましょうよ。手伝って下さるの。」
「さあ、僕に出来るかどうか分らないけれど、やってみよう。」
「きっとね。植木屋なんかに頼まないで、わたしたちだけで咲かせましょうよ。」
保治は深く頷きました。と同時に、彼をじっと見ている美代子の眼眸に、なにか一徹な熱いものが籠っているのを感じました。彼女の平凡な眼は、病気になってから、時折、見通し難い深さを示すことがありました。今も、保治はその深い底を判じかね、ただその底に一徹な熱いものだけを感じて、恐れる気持ちになりました。そして言いました。
「きっと咲かせるよ。咲いたら、その花を耕一君に捧げよう。」
美代子は頷いてみせましたが、言葉には何も出しませんでした。
然し、そういう約束も、果すことが出来なくなりました。保治に召集令状が来たのでした。
秋の半ばで、まだ紅葉には早く、藤の葉も青々としていました。だが、戦局は日増しに不利で、戦線は次第に本土近くへ押し返されて、心ある者には既に敗色が感ぜられていました。国外へ出征すれば生還を期し難い事態でありました。保治自身も、周囲の人々もそのことを暗黙のうちに了解していました。
そういう中で、一筋の信念に落着き払っているような美代子の眼付きを、保治は感じました。あなたはきっと無事に還ってくる、そう語っている眼付きでした。それに対して、保治は言いました。
「耕一君は白藤を記念に残していったが、僕は何も残してゆかないよ。」
「ええ、どうせまた還ってくるんでしょう。記念なんておかしいわ。」
そう答えて彼女は、暫く黙ってたあとで囁くような調子で言いました。
「わたし一人で、生きてる間に、きっと、あの藤に花を咲かしてみせるわ。」
その、生きてる間にというのが、なんだか変だと、保治は感じましたが、それを口には言えませんでした。
「なあに、どうだっていいさ。僕が還って来たら、大きな藤の木を、花をいっぱいつけるのを、あの側に植えてあげるよ。」
「でも、それまでには、あの木にもきっと花が咲くわ。そしたら、押し花にして送ってあげましょう。」
「うん、待ってるよ。」
美代子はじっと保治の顔を見て、それから、向うへ行ってしまいました。
追憶は、ただそれだけのものでした。
草光保治の部隊は二ヶ月ほど国内にいて、それから支那に渡り、あちこちに移動してまごついてるうちに、終戦となりました。保治は妹の手紙によって、美代子の病気が重くなったことを国内で知り、年を越して間もなく美代子が死んだことを国外で知りました。そして死は彼女のことを遠くへぼかしてしまいました。
その細川美代子が、車窓から見たあの白藤の家の背景に、いや、あの白藤の花とひそやかな住居との心像のなかに、立ち現われてきました。
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