時、更にあの時にも……彼女に愛を語ることが出来た筈だった。彼女も俺に愛を語ることが出来た筈だった。俺も彼女もそれを待望していたのかも知れなかった。然し二人ともそれをしなかった。俺の応召や彼女の病気がそれを妨げたのではなかった。それは却って愛を語る口火とさえなるものであった。俺たちが愛を語らなかったのは、ただ、余りに親しく愛しすぎていたからであったろう。少くとも俺の方は、余りに親しく彼女を愛しすぎていた。余りに親しく愛しすぎて、却って彼女を忘れていた。
その、忘れていた彼女を、白藤の家の心像は俺に蘇えらしてくれた。俺は今、周囲のすべてを、初めて見るような眼で新たに眺めている。彼女をも新たに眺めよう。彼女のうちのつまらないものは、容赦なく切り捨てよう。焼け跡のひょろひょろした藤蔓は、彼女のうちの最も惨めなものだ。引き抜いて打ち捨てなければならない。
彼女についてばかりではない。すべてのものについて、惨めなもの、醜いものは、容赦なく峻拒しよう。よく見てそして選択することだ。それが俺の生き方である……。
草光保治は、細川の家の焼け跡を、見返りもせずに立ち去りました。
彼は暫く、猫背の
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