の平凡な眼は、病気になってから、時折、見通し難い深さを示すことがありました。今も、保治はその深い底を判じかね、ただその底に一徹な熱いものだけを感じて、恐れる気持ちになりました。そして言いました。
「きっと咲かせるよ。咲いたら、その花を耕一君に捧げよう。」
美代子は頷いてみせましたが、言葉には何も出しませんでした。
然し、そういう約束も、果すことが出来なくなりました。保治に召集令状が来たのでした。
秋の半ばで、まだ紅葉には早く、藤の葉も青々としていました。だが、戦局は日増しに不利で、戦線は次第に本土近くへ押し返されて、心ある者には既に敗色が感ぜられていました。国外へ出征すれば生還を期し難い事態でありました。保治自身も、周囲の人々もそのことを暗黙のうちに了解していました。
そういう中で、一筋の信念に落着き払っているような美代子の眼付きを、保治は感じました。あなたはきっと無事に還ってくる、そう語っている眼付きでした。それに対して、保治は言いました。
「耕一君は白藤を記念に残していったが、僕は何も残してゆかないよ。」
「ええ、どうせまた還ってくるんでしょう。記念なんておかしいわ。」
そう答えて彼女は、暫く黙ってたあとで囁くような調子で言いました。
「わたし一人で、生きてる間に、きっと、あの藤に花を咲かしてみせるわ。」
その、生きてる間にというのが、なんだか変だと、保治は感じましたが、それを口には言えませんでした。
「なあに、どうだっていいさ。僕が還って来たら、大きな藤の木を、花をいっぱいつけるのを、あの側に植えてあげるよ。」
「でも、それまでには、あの木にもきっと花が咲くわ。そしたら、押し花にして送ってあげましょう。」
「うん、待ってるよ。」
美代子はじっと保治の顔を見て、それから、向うへ行ってしまいました。
追憶は、ただそれだけのものでした。
草光保治の部隊は二ヶ月ほど国内にいて、それから支那に渡り、あちこちに移動してまごついてるうちに、終戦となりました。保治は妹の手紙によって、美代子の病気が重くなったことを国内で知り、年を越して間もなく美代子が死んだことを国外で知りました。そして死は彼女のことを遠くへぼかしてしまいました。
その細川美代子が、車窓から見たあの白藤の家の背景に、いや、あの白藤の花とひそやかな住居との心像のなかに、立ち現われてきました。忘れるともなく忘れかけていたことを責めるかのように、胸の奥にひたと寄り添ってきました。
彼女が亡くなったあと、あの藤の木は二回ほど春を迎えた筈でありました。そのいずれかに、果して花をつけたでありましょうか。二回目の春の終りには、あの辺一帯は空襲により罹災して、細川の家も焼けましたので、藤の木も焼けたに違いありませんでした。
彼女の病死前後のことについては、保治の妹はくわしく知っていました。然し藤の木のことについては、一向に知りませんでした。保治は知らず識らず、藤の木のことを何度か繰り返し尋ねました。妹は怪訝そうに眉根を寄せました。
「藤の木って、いったいどんなんだったの、わたしちっとも気がつかなかったわ。」
美代子が藤の花のことをなにか言いはしなかったかと、保治はまた繰り返し尋ねました。
「そんなこと、一度も聞いたことがないわ。おかしいわね、兄さん、藤の木ばかり気にして……。」
妹からじっと顔を見られると、保治はその顔をそらしました。胸の奥が涙ぐましいような心地でした。
「焼け跡に行ってみたら、分るでしょう。ねえ、いっしょにいらっしゃらない。」
そう促がされて、保治も漸く行ってみる気になりました。然し、妹と一緒でなく、一人で行くことにしました。
細川の人々は、厚木の近くに移転していましたし、そちらへは、保治も帰還後すぐに訪れていました。焼け跡はまだそのままになっている筈でありました。
薄い断雲が空を流れてる暖い日でした。保治はとりとめもない瞑想に耽ってる気持ちで、而もなにか新たなものに立ち向う心構えで、目黒駅からゆっくり足を運びました。
広い焼け跡のなかに、細川の家の跡は、度々来馴れた場所のこととて、すぐに見当がつきました。ゆるい傾斜地の工合や、すぐ近くのコンクリート塀などが、場所をはっきり指示してくれました。
それにも拘らず、保治は暫く立ち止りました。
焼け枯れた木立は、ごく短い切株を残して、すっかり伐り採られていました。瓦礫やトタン板が散らばっていました。大小さまざまな石が、何に使われていたものとも分らず、意外にたくさん転がっていました。そして一面に赤茶けた焦土でした。その全体の面積が、如何に小さかったことでしょう。細川の家と隣家とまた隣家と……それらが其処に建ち並んでいたとは、到底思えないほどでした。それだけの人家が消滅して、後にその僅かな
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