地面しか残さなかったということは、眼の錯覚というばかりでなく、一種の驚異でありました。それでも其処にはっきりと、細川の家のコンクリートの土台の一部が、瓦礫のなかに狭小な地域を描き出していました。
 やがて、保治はその狭小な地域に踏みこみました。庭だったと思える片隅に八手《やつで》が三四株、地面低くこんもりと葉の茂みを拵えていました。その横手、寒山竹の藪跡らしいところに、ひょろりと伸びた幾筋かの蔓があって、ちぢれた小さな葉を出しかけていました。藤の葉でした。幹は無くなり、残ってる根本から、新らしい蔓を精一杯に伸ばしてるもののようでした。
 それを見つめながら、保治は腕を組んで頭を垂れました。
 あの眼覚めるような白藤の花と、それを軒先につけたひそやかな住居、それから、このひょろひょろした蔓と縮かんだ葉、両者の間には何の関連もなく、全く別な物でありました。
 保治は長い間、眼前の藤蔓を見つめながら、胸中に育まれた心像に縋りついていました。しみじみと涙が眼の奥ににじんできました。その涙に気がつくと、彼は唇をかんで、眼前の藤蔓をむしり取りました。数本の蔓をむしり取ると、その根本の土を棒切れで掘り返して、根まで引き抜こうとしました。案外に大きな強い根が張っていました。それをすっかり引き抜かなければならない、惨めな姿で残しておいてはいけない、そういう思いで、両手を泥で汚しながら、藤の根を引き抜きました。引き抜いた根を地面に投げ捨てました。藤の根は幾本もありました。それを悉く引き抜きました。
 額から汗が出てきました。泥の手でハンケチをつかんで、その汗を拭きました。そして彼は空を仰ぎました。
 ――俺は今、つまらぬ感傷に囚われているのであろうか。俺のしていることは子供じみてるであろうか。いや、そんなことはどうでもよい。ただ、俺はこうしなければならなかったのだ。眼前の惨めな藤蔓を抜き去ると共に、心像の藤の花を……生かせるものなら本当に生かしてやりたい。
 大陸にあった時、俺は彼女のことをしばしば思った。恋人のように想った。戦友たちに来る手紙の中には、妻からのや愛人からのが幾つもあった。俺にはそのような手紙は来なかった。然し、彼女がいることは、恋人がいるのに等しかった。愛し愛される女性を一人、どこかに持っているということは、強い生活力ともなり闘争力ともなった。
 彼女の死を知ってから、俺は孤独のさびしさを知った。両親や姉妹に対する感情は、彼女に対する感情とは別種なものだった。彼女のない俺は、情緒的に孤独だった。そしてこのきびしさの中に生きようとした。そういう生き方に於て初めて、死も生も同じであるのを感じた。
 戦闘らしいものもあまりなく、ただ移動彷徨をのみ続ける大陸での生活は、甚しく無意味なものに思われた。そして俺は、太平洋の中に没した耕一のことを羨ましく思った。戦争とか戦死とか、そういう事柄ではなく、ただ遠い彼方、太陽と大海との中が羨ましかったのである。生死一如の境地では、死もまた一つの旅と観ぜられたのだ。
 俺のちっぽけなばかばかしい旅は、敗戦と共に終った。それからは家畜のような生活をして、家畜のように帰宅してきた。惨めだという一語にすべてが尽きる。愛国心の乏しさを自分のうちに見出した俺は、敗戦などを苦にはしなかった。ただ、人間として、人間としての感情から、自分自身がまた凡てが惨めだった。
 この打ち萎れた気持ちの中で、白藤の家の心像が、汽車の窓から見た聊かの風景を機縁に、俺のうちに植えつけられたのだ。そして俺はしばしば過去に引き戻された。俺はあの時、またあの時、更にあの時にも……彼女に愛を語ることが出来た筈だった。彼女も俺に愛を語ることが出来た筈だった。俺も彼女もそれを待望していたのかも知れなかった。然し二人ともそれをしなかった。俺の応召や彼女の病気がそれを妨げたのではなかった。それは却って愛を語る口火とさえなるものであった。俺たちが愛を語らなかったのは、ただ、余りに親しく愛しすぎていたからであったろう。少くとも俺の方は、余りに親しく彼女を愛しすぎていた。余りに親しく愛しすぎて、却って彼女を忘れていた。
 その、忘れていた彼女を、白藤の家の心像は俺に蘇えらしてくれた。俺は今、周囲のすべてを、初めて見るような眼で新たに眺めている。彼女をも新たに眺めよう。彼女のうちのつまらないものは、容赦なく切り捨てよう。焼け跡のひょろひょろした藤蔓は、彼女のうちの最も惨めなものだ。引き抜いて打ち捨てなければならない。
 彼女についてばかりではない。すべてのものについて、惨めなもの、醜いものは、容赦なく峻拒しよう。よく見てそして選択することだ。それが俺の生き方である……。

 草光保治は、細川の家の焼け跡を、見返りもせずに立ち去りました。
 彼は暫く、猫背の
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