がますます、草光保治に眼を見張らせました。
 然し、如何に眼を見張ったとて、やはり、日本が祖国であり、東京が郷里であることには、聊かの変りもありませんでした。ただ、祖国であるその日本が、郷里であるその東京が、ふしぎに変って感ぜられるのでした。戦争により、殊に空襲により、二ヶ年半の間に相貌が変った、というばかりでなく、草光保治の内部にもなにか変ったものがありました。記憶が薄らいで眼が冴えてくる、というような状態にありました。
 そういう異邦人めいた感懐のなかに、ぽつりと、淡い灯をともしたような、一の心像がありました。縁側に踞まってぼんやり庭を眺めている時など、それが浮んできました。焼け跡を散歩しながら、嘗てはその辺からは見えなかった富士山の姿を、西空はるかに見出して、ふと足を止め、しみじみと眺め入っている時など、それが浮んできました。
 その心像が、いつ胸の中に飛びこんできたのか、草光保治にはよく分りませんでした。帰還の途中、大船と横浜との間の列車の窓で……ということははっきりしていましたが、実は、必ずしもそれに限ったことではなかったようでした。
 その時、彼は車窓にもたれて、身も心もぐったりしていました。東京の家のことや人々のことを考えるのも、夢の中でのような心地でした。そしてただうっとりと外の景色に眼をやっていました。丘陵地帯で、眼界は狭まったり広まったりしました。鋤き返した土地、麦の伸びてる土地、新緑の木立、八重桜の花、ひっそりしてる人家……それらの中に、一点、桜の花より更に真白なものがありました。白藤の花で、生籬にかこまれたひそやかな家の軒先に、余り長からぬ房をなして垂れていました。広い棚を拵えずにただ支柱で支えられてる藤蔓、その蔓から群がり垂れてる真白な花、それを軒先に持ってる清楚な家、ただそれだけのものですが、その白藤の余り長からぬ花房とその住居のひそやかさとが、一つに融け合って匂っていました。
 それはすぐに車窓から飛び去りましたが、草光保治はなおその姿を心で眺め続けました。他の何処かで度々見たもののようでもあり、長く夢みていたもののようでもありました。
 その心像が胸の奥にひそんで、時折、飛びだしてくるのでした。
 白藤の花とその家……そこに彼女の面影がありました。忘れるともなく忘れはしたが、然し忘れかねる彼女であり、細川美代子と名前を言うには、もう余
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング