ら、私がこの子を探しに来たのですよ。」と陳慧君はいったそうであります。
けれども、この話とても真偽のほどは分りかねますし、とにかく、陳慧君は相当多額の金を爺さんに与えて、少女を引取って来たらしいのであります。その少女が柳秋雲でありまして、秋雲というのは、爺さんか船乗りかがつけた名前なのか或は元来そういう名前だったのか不明ですが、柳という姓は、爺さんの姓を取ったというのが本当らしく思われます。其の後彼女は陳慧君の養女みたようになりまして、陳秋雲と呼ばれることの方が多くなりました。陳慧君は秋雲の前身については、誰に対しても語るのを避けていました。
陳慧君自身の生活がまた、多くの影に包まれていました。彼女は南京の生れだといわれていましたが、上海のことに大層通じておりました。亡夫は演劇方面に関係のある仕事をしていたという説もあり、または古着を取扱う商売をしていたという説もあります。其の後、彼女は相当の資産を所有して、骨董品類の店を経営していましたが、その店が実は方福山から委託されたものだとか、或は貰い受けたものだとか、いろいろの陰口が囁かれたこともありました。そして方福山との多年の関係は、殆んど公然の事実みたいになっていました。
彼女は背が高く、体躯が細そりとして、眼の動きが敏活であり、もう四十歳ほどなのに、若々しい肌色をしていました。そしてこの市井の一未亡人は、各方面につまらない用件を発見することにかけては、稀有の才能を具えていましたし、実につまらないその用件も、彼女の口に上せられると、なにか心にかかる趣きを呈するのでした。そのようにして彼女は、各方面に知人を作っていましたし、凡そ権力のあるところ、富力のあるところ、野心のあるところには、彼女の姿がしばしば見受けられました。ホテルの食堂などにも彼女はよく出かけましたし、ダンスも相当以上に巧みであることが、ボーイ達には知られていました。然し上流の社会にとっては、彼女はただ中流婦人に過ぎませんでしたし、少しく清潔でないそして少しくうるさい有閑婦人に過ぎませんでした。
そういう陳慧君のもとで、柳秋雲は少女時代を過し、学校に通い、それから化粧法や料理法も覚えましたし、特に歌曲をも教わりました。また、陳慧君のところにはいろいろな来客が多く、秋雲はいろいろな談話を聞きました。そして十七歳になった時、彼女は十ヶ月ばかり荘家で暮すことになりました。
陳慧君はその店の奥に秘蔵してる書画のことで、また方福山を通じて、荘家とも誼みを結んでおりました。そして或る時彼女は、荘夫人の前に、恰も懺悔でもするような謙虚な調子で、自分の頼りない身の上を歎き、これまでの軽薄な行動を悲しみまして、次に柳秋雲のことを持ち出し、由緒ある家柄の憐れな孤児だが、彼女を立派に育てるのが衷心の願いであるといって、荘家の淳良な家風のなかで暫く彼女を教養して頂きたいと頼みました。それから彼女は声を低めて、ひそやかにいいました。
「こちら様が市公署の方を御引受けになりますれば、いろいろ人手も御入用でありましょうし、秋雲を女中同様に使って頂きとうございます。また私としましても、あの子を御手許に預けておきますれば、安心して当分上海で過すことが出来ます。」
その頃、市長が或る事で引責辞職しまして、後任には、徳望高い荘太玄を引出そうという運動が起りかけていました。また陳慧君の方は、なにか政治上の秘密な役目を帯びてという説もありますし、阿片密輸に関係あることが現われかけたからという説もありますし、両方を一緒に結びつけた説もありますが、当分の間上海に行くことになっておりました。ところが、荘太玄は市長の役目を冷淡に固辞してしまいましたし、陳慧君の上海行きは延び延びになっていつしか立消えてしまいました。そしてただ、柳秋雲が荘家に委託されることだけが実現しました。
それから十ヶ月の後、新緑の頃、アメリカから来た老人夫妻の漫遊客を案内して、陳慧君と方福山とは泰山へ出かけました。その一行に、方福山の娘の美貞が加わり、ついては柳秋雲も加わることになりました。その旅から帰って来た時、陳慧君は急に熱を出し、多分の喀血をしました。彼女は苛立って、しきりに泣いたり怒ったりしました。その機会に、柳秋雲は荘家から陳慧君の許へ戻ることになりました。
荘家へ来ました当時、柳秋雲は、その世馴れた態度と内気らしい寡黙さとがへんに不調和でありまして、眼差には冷徹ともいえるような光を宿していました。然し間もなく彼女は、荘家の温良な雰囲気になずんできまして、その態度には快活さが加わり、その寡黙さは要領を得た言葉と変り、その眼差の光は和らいできました。荘夫人は彼女に興味を持ち、侍女とも娘分ともつかない地位に置きました。美しい彼女の顔立は、横から見れば※[#「臣+頁」、第4水
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