はっはと笑いました。
 陳慧君はもう、そばの方夫人に話しかけていました。
「蛸の足に、あのまるい、吸いつくものが、沢山ありますでしょう。あれだけを取って、干し固めましたものを、奥地の特別な蔓だといって、アメリカの水兵さん達に食べさしていた家が、上海にありましたよ。大変繁昌しておりました。」
 方夫人はただうなずいて聞いていました。同席してる娘の方美貞は女学生風の快活さで、柳秋雲になにか囁いていました。ただ陳慧君だけが、女のなかでは一人、全席の話題の中心にも言葉を出すのでした。
 陳慧君の存在は目立ちました。彼女と方福山との関係は、方夫人にも既に公然と承認されてるようでしたが、そういうことを別として、社交に馴れてる彼女の挙措応対は、その敏活な眼の動きと、血の気の少い白く澄んだ皮膚と共に、品位は乏しいが人目を惹くものがありました。彼女はしばしば高賓如の方へ言葉をかけました。高賓如は簡単な返事だけをしておいて、おもに隣席の荘一清と話をしました。古典や近代文学にも彼は少しばかり知識がありました。
 汪紹生は殆んど口を利きませんでした。時々柳秋雲の方を眺めました。柳秋雲は無口でつつましくしていましたが、顔を挙げて汪紹生の視線に出逢うと、またすぐに眼を伏せました。
 そして、四時間余に亘る酒宴は別に事もなく運ばれましたが、方福山は突然呂将軍に向って、二人とも何の理解も持っていそうにない音楽の話を初め、あらゆる歌曲のうちでもやはり京劇のそれが最も優れているという結論を引出しました。そして彼は陳慧君に呼びかけて、如何にも自然な無造作な調子で、柳秋雲さんの歌を少し聞かして頂けまいかと頼みました。陳慧君は微笑んで、柳秋雲に何か囁きました。そして不思議にも、柳秋雲はすぐに立上ったのでした。方美貞が喫驚した眼で彼女を眺めました。
 柳秋雲は少し蒼ざめた顔を緊張さして、石のようにあらゆる表情を押し殺していました。そしていいました。
「私は歌妓ではございませんから、ごくつまらないものきり存じませんけれど……。」
 あとは声がつまったようで、そして横を向いて、宙に眼を据えながら、低めの声で歌い初めました。それは普ねく知られている歌曲でありまして、四郎探母という京劇のなかで四郎が母を想って歌う、ゆるやかな悲しい調子のものでした。
 宴席にふさわしくないその歌は、故意の皮肉かとも思われましたが、やがて深い感銘を与えました。彼女の声は次第に高まって、美しい哀切なものとなりました。髪飾りの宝石が、耳の後ろでこまかく震えました。彼女の横顔に目立つ※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のとがりは、ひたむきな心情を示すようで、そしてその頬のふくらみは、やさしい愁いを示すようで、それが一緒になって、母を思慕する歌調を強めました。
 汪紹生が顔を伏せてるだけで、そして陳慧君が一座の空気を窺ってるだけで、人々は息をこらして、柳秋雲の上に眼を釘付けにしていました。呂将軍の眼もその時だけは生々とした色を浮べました。彼女はただ歌にだけ身も心も投げこんでるようでしたが、歌い終えると、やはり表情を押し殺した様子でちょっと会釈しましたが、そのまま、逃げるように足早く次の室にはいって行きました。
 方美貞がすぐ立上って、彼女の後を追ってゆきました。
 感嘆の吐息と声が洩れました。客の一人の中年の婦人は涙を拭きました。そして柳秋雲と方美貞とが戻って来ないのをきっかけに、よい工合に食卓は見捨てられることになりました。
 次の広間の片隅に、麻雀の一組が出来ました。方夫人と陳慧君と、歌のあとで涙を拭いた中年の婦人とに、方福山の隣席にいた老人が加わりました。
 汪紹生が一人で庭の方へ出て行ったようでしたから、荘一清と高賓如とは連れ立ってその方へ行ってみました。
 晴れやかな秋の夜で、星辰が美しく輝いていました。池のない広庭には、植込や置石が多く、築山の上の小亭にぽつりと電灯が一つともっていました。
 高賓如は両手を差上げ伸びをしてから、冷かな批判の調子でいいました。
「今晩の宴会には、欠けたものが一つあったね。」
「何ですか、それは。」
「君のお父さんが来られなかったことだ。」
「父は近来、ここの人達をあまり好まないようです。」
「それは当然だ。然し、ここの人達にしてみれば、君のお父さんは最も大切な客だった筈だ。」
「なぜですか。」
 高賓如は荘一清の方を振向いて、その真実怪訝そうな眼付を見て取ってから、いいました。
「考えてみ給え。荘太玄の名望と、方福山一家の財産と、それから君達自身はどう思ってるか知らないが、青年知識層の精鋭と見られてる一方の代表者たる、荘一清と汪紹生、それから自分でいうのも変だが、呂将軍の知嚢としてのこの高賓如、それになお、社交界の花形と独りで自惚れてる陳慧君、将来特異な才
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