へ坐らせました。彼女は倒れるように身を落しました。
「どうしたのですか。」
彼女は高賓如をじっと見つめていましたが、不思議に美しい声でいいました。
「秘密を打明けた代償として、私の……貞操を要求なさいました。」
「分りました。」と高賓如は答えました。
そして彼は呂将軍の傷所を調べました。
彼は説明して、ちょっと呂将軍を弁護しました。「秘密な計画に参加させる女性には、相手によっては、その肉体までも要求することが、最も安全な途とされている。ただ、呂将軍は人物を見分ける明がなかったまでのことだ。」
呂将軍は、もう息が絶えていました。脇腹に拳銃を押しつけて射撃されたらしく、次には、倒れたところを背後から胸部に一発受けていました。どちらが致命傷だかは不明でした。
夜食の料理には全く手がつけてなく、酒は少し飲まれていました。地図とその他の書類は繰り広げられていました。そして阿片が吸われていたらしく、その器具は取乱してありました。
高賓如は柳秋雲に何にも訊問しませんでした。軍装の外套を彼女にまとわせ、拳銃を持たせたままで、その身柄を、自動車の運転兵に旨を含めて、天津の某所に送りました。
迅速な処理を要しました。高賓如は直ちに、呂将軍の脳溢血頓死と表面を糊塗し、夜を徹して軍の統率を一手に収めました。そしてその翌日、高賓如将軍擁立の民衆行列が行われましたが、高賓如は自らそれを直ちに解散させました。不思議に整然とした行列で、その先頭には、先日南海公園で汪紹生と逢った黒眼鏡の青年が立っていました。他に何事もなく、全市は高賓如の権力の下に静まりました。変事前からの準備が何かあったらしいとの風説がたったのも、無理ないことでありました。
ただ遺憾なことが二つありました。一つは柳秋雲の行方でありまして、彼女は天津に送られる途中、闇夜のなかで自動車がちょっと故障を起したすきに、全く姿を消してしまったのであります。他の一つは、彼女が荘家の庭でうたった歌の文句で、荘一清と汪紹生とが記憶を辿りまた知能をしぼって如何ほど拵えあげてみても、あの時の印象とは遠いものしか得られませんでした。二人は原歌詞に白塔の歌という題をつけて、柳秋雲を長く偲びましたそうです。彼女の行方は遂に不明のままに終っております。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」
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