所が或る日、陰鬱な雨がじめじめ降り続いてる午後、その女中部屋で、けたたましい叫び声がした。座敷に居た秋子と台所に居た清とが、両方から同時に駆けつけた。見ると、窓の下に、こちらに背を向けて、晋吉が棒のようにつっ立って居た。秋子が真先に駆け寄った。晋吉は真蒼な顔をして、暫くは口も利けなかった。漸く口を開かしても、ただ窓の外を白い物が飛んだというきりで、詳しいことは更に分らなかった。彼自身も半ば夢心地だった。
「それごらんなさい、云わないことではありません。」と秋子は、勝ち誇った語気で、そしてそれをわざと不気味そうな表情で押っ被せて、良人に云った。「小学校にも通ってる晋吉が、あんなに喫驚するくらいですから、普通のことじゃありませんわ。」
 晋作もさすがに一寸気を惹かれた。彼は怪力乱心をこそ語らなかったが、楽天家相当の偶然の機縁――それに多少の思想を交うれば、すぐに霊とか奇蹟とかになり得るもの――を否定しはしなかった。で試みに、女中部屋にはいって、あちらこちら歩き廻ったり、一寸屈み込んだりして、腕を組みながら、小首を傾げてみた。
 廊下の障子と室の障子とで二重に漉された明るみが、北の高窓から射す光りで暈されていた。窓の外は隣家との境の亜鉛《トタン》塀で、塀の上に伸び出てる桜の梢が見えていた。直接の日光が射さないせいか、室の空気が底冷たかった。まではよいが、押入の方から、何だか嫌な気が漂ってくるようだった。はっきり捉え所のない、変に気持ちが惹かされる、馬鹿げてるが打消せない、何とはなしに嫌な気だった。よく見るとその半間《はんげん》の押入の襖と柱との合せ目が、どちらか歪んでるせいか、上の方が五分ばかりすいていた。掌をかざしたが、別に隙間風がはいってる様子もなかった。襖を開くと、清の荷物や見馴れた古道具が、中に一杯押込んであった。なお試みに、上下左右の張り坂を、指先でとんとん叩いてみたけれども、釘付もしっかりしているらしかった。所が、差伸べた手先と頭とを引込めた途端に、ふっと鼻先を掠める匂いのような、嫌な気がすっと漂ってくる心地がした。彼はぴしゃりと襖を閉め切った。
 何とも云えない変な気持だった。彼は※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々に廊下へ出て、それから、押入の反対の側を見廻ってみた。其処は台所の煤けた壁だった。妙だな、と思う心が好奇心に変って、台所の揚板を二三枚めくって、押入の下に当る方を覗き込んだ。薪束の転ってる向うに、蜘蛛の古巣が破けかかっていて、黴臭い床下の地面が茫と横たわってるきりで、何等の異常もないし、少しの嫌な気も漂っては来なかった。
 彼はぼんやり座敷へ戻っていった。
「如何でした?」という意味を眼付に籠めて、秋子は彼の顔色を窺った。
「何でもないよ。」と彼は自分自身にも云ってきかせるような調子で答えた。
 がやはり、どうも腑に落ちなかった。薄気味の悪い変な押入だ! という気持が、頭の底にからみついてきた。
 そこへ清が変梃なものを齎した。
 或る夜のこと、電燈の光りが、潮の引くようにすーっと薄らいでいって、ぷつりと消えたかと思うと、またぱっとついた。おやと思う途端に、今度は本当に消えてしまった。座敷に居た秋子は、仏壇の蝋燭を探し当てた。二階からは晋作が、玄関からは清が、手探りにやって来た。そして秋子と晋吉とを加えて、ぼーっと赤い蝋燭の光りのまわりに、皆で集った。かと思うと、じきに電気が来た。なあんだという眼付で互に見合った。
 お茶でも飲もうということになったが、生憎鉄瓶の湯がぬるかった。清はそれを瓦斯の火で沸しに、台所へ立って行った。ばたりばたりと、肥った短い足先の上草履の音が、廊下に二三歩聞えたかと思うまに、あれっ! という叫び声と、がたりと鉄瓶を取落した音とが、殆んど同時に聞えた。瞬間に、総毛立った清の顔が、座敷へ飛び込んで来た。――廊下を二足三足歩き出して、何気なくわきを見ると、女中部屋の障子の向うに、真黒な大入道が、ぬーっと延び上った……までは覚えているが、後は一切知らない、と彼女は云った。
 その様子が余り真剣なので、皆はぎくりとした。けれども兎に角、晋作が先に立ち秋子が続いて、女中部屋を窺いに行った。玄関から廊下へ出ると、真黒な大きな奴が、障子にぬーっと現われた。がそれは、玄関の電燈の光りで投げられてる、自分自身の影だった。
 安心すると、可笑しくなった。
「おい、皆で来てごらん、大入道が居るから。」
 晋作の声の調子に元気づいて、皆は座敷から出て来た。大きな影が幾つも重なって、眼の前の障子に映った。
「やあ、大入道が沢山居らあ!」と晋吉が叫んだ。
「お前のは小入道じゃないか。」
 そして皆は、まだ先刻の驚きから醒めずにいる清を除いて、障子に影を映し合った。けれど、それが次には不気味になって
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