た。
 男はやがて身形《みなり》を直した。額の脂汗を袖で拭った。それから蚊帳の外に出て、押入の襖を静に開いた。中には四尺ばかりの空いてる場所があった。男は蚊帳の外から手を差伸べて、老人の足先を捉えて引きずり出した。それを両手で軽々と持上げ、押入の空いてる場所へ横たえた。それから押入の襖を閉め、蚊帳の中の布団の乱れを直し、兵児帯をまとめ、室の四方に恐ろしい眼付を投げて、慌しく出て行った。
 凡ては、前から熟慮されたもののように、的確な段取りで速かに音もなく為された。ただ、押入の襖だけが二三寸閉め残されていた。
 あたりは静まり返った。そのひっそりとした中に、向うの室から、時々何か低い物音が洩れてくるばかりだった。そして押入の中には、眼を見開き、口をうち開き、鼻から何とも知れない液体を出してる、老人の絞殺死体が、寝間着の胸をはたげ、手足をにゅっと伸して、固く冷くなっていった。それに蚊が群りついた。
 柱時計が午前三時を打って間もなく、先刻の男がつかつかとはいって来た。手にマッチとアルコール瓶とを持っていた。彼は押入に歩み寄ったが、二三寸閉め残されてるその襖を見てぎょっとしたように立ち竦んだ。それからびくりと肩を聳かして、押入の襖を開き、老人の死体を確かめた。そしていきなりアルコールを、襖や障子に振りかけて、そこへ火をつけた。蒼い焔がめらめらと広がるのを見定めて、彼は向うへ姿を隠した。
 三十分とたたないうちに火焔は一面に室を包んだ。それからその家を包んだ。家の棟が焼け落ちる頃になると、焼け壊れた押入の一枚の板を、火と灰との海の中の小舟のようにして、老人の死体は静に乗っかりながら、じりじりと焼かれていった。が、半焼のうちに消防夫の手から掘り出された。

 その幻影は、中井刑事の予想に反して、晋作や秋子にとっては、あらゆる妖怪変化よりも、更に恐ろしく更に不気味だった。
 彼等はその翌日、見当り次第の空家へ、一時の我慢だとして、すぐに引越してしまった。前の家のことを考えると、ぞっと冷水を浴びるような心地がした。そして、移転した汚い家の荷物の散らばった中に、ほっと腰を落付けながら、遠い幻影をなお頭に浮べて、何とも云えない表情で互に眼を見合った。その二人の顔付を、綾子と晋吉と清とが三方から、不思議そうに見比べた。
 が、少くとも此度の家は安心だった。



底本:「豊島与志雄著作
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