かったようでしたが、岸本は堪えられない思いで、静岡の住居だけを聞いて、辞し去りました。静岡の家は、彼女の伯母に当るとかいう由でした。
 岸本はすべてが明るくなった思いをしました。その明るさの中で、ただひしと彼女がいとおしく、同時に自分自身が醜悪に感ぜられました。その醜悪な自分を嘖む気持ちで酒に浸り、酔いがさめてはまた彼女を想いました。一度は静岡への汽車の切符を買いましたが、それを裂き棄てて、代りに手紙を書きました。
 その手紙の一節にこういう意味の文句がありました。――私は日夜、あの白い大きな蛾を幻のように心中に描き出しています。その蛾は私の愛情と自責とを燃えたたせます。率直に申せば、今こそ私は、あなたを真実に愛していますし、あなたの精神の一種の弱みに乗じてあなたを誘惑したことを、血を搾って自責しています。私は人間としてあなたの足下に跪きます。あなたもどうか人間として、この私を眼にとめて下さい。たとい葉書一枚でも一行の文字でも宜しく、あなたのその眼差しの証しを私に下さい。
 そういう意味を中心とした手紙も、先方へ届いたかどうか分りません。小泉美津抜からは何の返事もありませんでした。


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