邸宅だったのをそのまま使用してるのでした。門構えからちょっと坂道をのぼって、玄関のベルを押すと、前日岸本が声をかけておいた時の女中、質朴らしい若い女が出て来ました。そして二人は、六畳の日本室と円形の洋室とがじかに接してるのへ案内されました。窓の外は木影や植込みで、清凉の気が室内にも漂っていました。
岸本は背広の上衣をぬいでネクタイをゆるめ、美津枝は端坐して扇を使い、畳敷の方に卓をはさんで向い合いました。
「わたくし、昨日もあすこでお待ちしておりました。一昨日もお待ちしておりました。」と彼女は言いました。
「しかし、今日、土曜日というお約束だったでしょう。」
彼女はそれを、耳に入れないのか或は気にしないのか、何の返事もせずに、窓の外に眼をやったきりでした。
「ほんとに静かないい家ですこと。」
岸本はちょっと落着かない気持ちでした。貴婦人らしい装いの彼女は、その白痴美らしい感じ以外、もうお千代さんともすっかり異って見えました。ハノイの某婦人などとは全然異っていました。岸本はやたらに煙草をふかしました。
あり合せの小料理ものを添えて酒が運ばれてくると、岸本はほっと息をつきました。
「あの、お泊りでございましょうか、それとも……。」
その点は、岸本も不用意でした。女中が出て行ったあと、彼は他人事のように美津枝に尋ねました。
「どちらでもおよろしいように……。」と彼女は平然と答えました。
その白々しい顔を、岸本は不気味に眺めました。彼女が花柳界などの空気を吸った女でないことも、また、ひそかに男客を取るような女でないことも、極めて明らかでした。そうだとすれば、なにか性的欠陥のある中性的な女だったのでしょうか。そういう様子も見えませんでした。岸本は自分の感情の持ちように迷いました。それでも、一方、彼女のその平然さに、彼は一種の安心をも覚えました。
彼は速度を早めて酒を飲みました。ウイスキーも飲みました。彼女も彼から勧められるまま、酒を飲みました。女としては相当の酒量らしいようでした。
庭には蝉が鳴いていました。昔、お千代さんの室でも蝉が鳴きました。夜中なのに、室にとびこんできた一匹のつくつく法師が、電灯の笠の上方のコードに逆様にとまって、大きな声で鳴きました。お千代さんは冗談話をやめて、その蝉を見上げました。お千代さんがまた話をしだすと、蝉がまた鳴きだしました。彼
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング