を見もしないで言いました。
「家まで来て下さいませんの。」
「今日は許して下さい。」
 彼女は重い袋をさげて、心に何の思いもなさそうに歩いてゆきました。

 岸本省平はなにか焦燥に似た懸念に囚えられました。時がたつにつれて、危険とは言えないまでもとんでもない冒険に突進してるのではあるまいかという気もしました。或はまた、何でもないことを大袈裟に考えてるのではあるまいかという気もしました。そしてそのどちらからともつかない曖昧さが、更に彼を焦ら立たせました。一層のこと、あの日すぐに、せめてその翌日に決行しないで、三日も延すだけの配慮をしたことが悔いられるのでした。仏印のハノイにいた頃、或るお茶の会の席から、某夫人を誘い出して、二人で自動車を駆って山荘に行き、夜半まで遊び暮したことなど、新たに思い出されました。
 約束の土曜日になりますと、彼は仏印みやげの香水などちょっと体にふりかけて、三時前に、五重塔のところへ行きました。緑青色の屋根を重ねた重厚な感じのその高塔に眼を据えて、肚を据えてかかる気持ちを固めました。
 ところが、彼より先に美津枝は来ていました。桜の並木の蔭から立ち現われて、真直に彼の方へやって来たその姿に、彼は眼を見張りました。いつもより濃く化粧をし、髪のカールを一筋乱れぬまでに梳かしつけ、薄鼠色の地に水色の井桁を散らした薄物をきりっとまとい、一重帯の帯締の翡翠の彫物を正面から少しくずらし、畳表づきの草履を白足袋の先につきかけ、銀の太い握りの洋傘を絽刺の[#「絽刺の」は底本では「絽剌の」]ハンドバッグに持ち添えていました。それだけのことを彼が見て取ったほど、彼女は今時珍らしい粋ないでたちでした。それでも、彼女はやはり笑顔も見せませんでした。
「お待ちしておりました。」と彼女は言いました。
 それから、ちょっと歩こうと言って、彼女は彼を墓地の中へ誘いました。五重塔と高さをきそってる大きな銀杏の木のほとりを、ただ無言のうちにぐるりと一廻りして、そして元の所に出ました。
 彼女は尋ねるように彼の顔を見上げました。
「とにかく、どこかへ落着きましょう。」
 彼女は頷きました。
 何かの場合のため、人の込み合う乗物はいらない近くに、彼は場所を物色していました。
 焼け残りの一角の外線、こんもりと大木の茂ったひっそりした所に、高級旅館の名を掲げてる洋館がありました。大きな
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