芝田さんに叱られたことなんか、正夫には覚えがありません。
「そうねえ、あなたは別だから……。でも、あたしも、先生には叱られたことがないんですの。怒《おこ》られたこともないようですの。それで、少しも叱られも怒られもしないのは、じつは、全く無視されてるんじゃないかと、そんな気もするんですが、ひがみでしょうか。」
へんに真面目な話です。だが、そんなことは、正夫には分りません。
「おじさんは、きっと、怒ることや叱ることを知らないんでしょう。」
ごまかすつもりでそう云うと、駒井さんはそれをまともにとって、考えこんでしまいました。
へんに黙りがちな、沈みこんだ食事です。たしかに、駒井さんは、ふだんのにこやかさを失っています。
それに、食事の間に、三度ばかり電話がかかりました。「ご主人はいつ頃お帰りでしょうか、どこに行ってらっしゃるのでしょうか……。」そういう電話で、先方の名前は仰言いません、と女中が取次ぎます。だから、秘書格の駒井さんは、そのつど、立ってゆきます。電話室から戻ってくると、苛立ってるのを無理に押し隠してる様子なのです。そして葡萄酒を、自分でものみ、正夫にもすすめます。
九
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