、机によりかかって、泣いています。さきほどから堪《こら》え堪えてきた感情が、一時にほとばしって、涙となって出てきたような、泣き方です。
 正夫がそっと寄りそって、その背中に手をかけると、駒井さんはいきなり縋りついてきて、また一層泣きだしました。悲しいのでしょうか、嬉しいのでしょうか、どうしたのでしょう。
 だが、正夫もいつしか、涙ぐんでいます。
 しいんとした夜です。
 ちらちら、芝田さんのことが、頭のすみっこにひっかかってきます。正夫は先刻から、妙なことを思いだして、それを考え廻しています。父が鉛筆での走り書きで、「明朗な性格――芝田」という文句です。芝田というのは、芝田理一郎のことにちがいありません。そう交際はなかったようでしたが、遠縁に当るので、互によく識っていた筈です。芝田さんは今でも、たまに、父の噂をすることがあります。
 あの文句は、恐らく、父が死ぬ少し前あたりに、書かれたものでしょう。父は愛読した書物のなかに、符牒のような文句を、いくつも書いています。もう四五年前のことで、はっきり覚えていませんが、父はあの頃、ギリシャ神話をしきりに読んでいました。その神話の或る書物の欄外に、あの文句が書きつけてあるのです。ミダス王の驢馬の耳の話のところです。
 芝田さんを明朗な性格の人だと、父は思っていたのでしょう。それはそれにちがいありません。ところが、その明朗な性格が、あの物語と、どういう関係があるのでしょう。ミダス王とでしょうか、その愚かな耳とでしょうか、その異様な長い耳とでしょうか、その秘密を知った理髪師とでしょうか、秘密を穴のなかに囁きこんだこととでしょうか。謎のようなものです。もしかすると、全く逆に、愚かでない耳とか、秘密を持たない理髪師とかは、明朗だというのかも知れません。
 正夫はそっと、駒井さんにたずねました。
「ねえ、神話の、ミダス王の話、あれを知ってるの。」
 駒井さんは、泣いてる眼で微笑みました。
「ミダス王の驢馬の耳と、理髪師の話、あれですよ。」
「知ってるわ。」
「あれ、どんな意味なの。」
「あの通りの意味よ。」
 駒井さんは、じっと正夫の顔を見て、また微笑みました。
「そんなこと、どうでもいいのよ。」
 そして正夫を引きよせました。
「ご免なさい、泣いたりなんかして。ただ、へんに、恐ろしかったのよ。」
 それで、驢馬の耳も理髪師も、どこかへ消えてしまいました。そうだ、正夫も、なんだか恐ろしくて悲しかったのです。
 暫く黙ってると、こんどは、駒井さんが云いました。
「お二人で、喧嘩になりはしないかしら。」
 やはり芝田さん兄弟のことです。正夫は微笑みました。
「康平さんがなにか云っても、おじさんが相手だから、喧嘩なんか……。」
「そうね。」
 おかしいのは、六つも年上の駒井さんの方が、正夫の妹のようなんです。
 芝田さんのことが消えてしまっても、あとになにか残って、淋しいのです。
「ねえ、正夫さん、あたしたち、いつまでも、お互に忘れないようにしましょうね。」
 またふっと、涙がわいてきそうです。
「いやだ、そんなこと言っちゃ……。」
 駒井さんは眼をつぶっています。弾力性のある小さな口付が、かすかに震えています。
 正夫は駒井さんの胸に、顔を押しつけていきます。顔をそこに埋めてしまったら、息がつまりそうな芳ばしい胸です。そうなりたいのです。いやいや……と云うように、駒井さんは正夫を抱きあげます……。
 ぱらぱらと、かすかな音が戸外にしています。また雨が降りだしたのでしょうか。それに耳を傾けていると、その音だけになってしまって、外のものは凡て、宙に消え失せてしまいます。

 少しも眠らなかったのでしょうか、いくらか眠ったのでしょうか、それがよく分りません。なにかぼーっとした明るみが戸外にたたえて、かすかに物のざわめく気配《けはい》です。
 正夫はそっと起き上りました。駒井さんの瞼がちらちら動いて、そのままじっと静まり返りました。ちっとも瞬きをしない深々とした眼差です。それだけで、駒井さんは何とも云いません。
 正夫は縁側に出て、雨戸を一枚あけました。
 ただ一面に仄白い夜明けです。霧とも云えないはどの微細な水気《すいき》が、薄くたなびいていて、それがあらゆるものに仄白い衣をきせています。
 正夫は外にとびだして、大きく伸びをしました。駒井さんとの間に、別に恥しいことがあったわけではありません。恥しいことはなんにもなくて、この仄白い霧のようなものに浸ったのでした。それを考えて、自分でもびっくりするような力がわいてきました。
 庭を歩いていると、大きな蚯蚓がはいだしています。――いつでしたか、正夫がやってくると、芝田さんが襯衣一枚になって、裏の例の畑地を掘り返してることがありました。大きな顔を真赤にし、汗を
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