い街路です。石垣や大きな建物や、空地の板囲いなどばかりです。芝田さんはなにか瞑想にでも耽ってるように、うなだれてゆっくり歩いてゆきます。そして聖橋に出ると、いきなり丘の上に出たような、立体的な景色になります。空《くう》に聳えた感じのする橋で、下の方に電車が走っており、更に下の方に、掘割のどす黒い水が淀んでいて、夜分のこと故、その水に灯が映って夢のようです。芝田さんは橋の濡れてる欄干によりかかって、じっと景色を眺めています。いつまでもじっとしています。
「ばかばかしいから、僕は先に帰ってきたが、芝田さんは、たぶん、また自動車をひろって戻ってきたんだろう。」とチビは云います。
 正夫は黙っていました。
「ばかげてるだろう。」
「何が?」
「芝田さんのことさ。」
 正夫は黙っていました。
「こうなると、もう僕には分らない。せっかく、いい人だったんだがな。」
 正夫はまだ黙っていました。
「何を考えてるんだい。」
「君には分らないことだよ。」
「ほほう。」
 チビは暗いなかでおどけた声を出して、耳をかいたようです。
「だがね、もし芝田さんが……。」
 チビが何か云いかけた時、座敷の方がざわざわとしました。見ると、康平さんが来たのです。チビはひっこみ、正夫は座敷の方へ戻っていきました。急に寒くなったようです。もうずいぶん遅いのでしょう。

 康平さんは、洋服をきています。眼には昂奮の色がただよっていますが、顔はなあんだという表情です。それを、芝田さんは迎えて、もうすっかり酔いに落着いた態度で、鷹揚に眼尻には笑みを浮べてるようです。
「まだ酒ですか。」と康平さんは別に不服でもなさそうに云いました。「だいぶ前、電話したら、まだ帰ってませんでしたね。どこをうろついてたんです。もう寝ようとしたが、眠れそうもない。やはり、今晩のうちに片附けたくなって飛んできたんだが、もし兄さんがいなかったら、一晩中でも坐りこむ覚悟でしたよ。」
「僕も、逢いたいと思ったんだが……。」
「そんなら、電話でもすればいいじゃありませんか。いろいろ、話したいことがあるんです。何かと、聞きこんだこともあるし……。兄さんの覚悟を聞いとかなくちゃならない。真剣な話ですよ。どこか、外に出ましょう。自動車は待たしてあるんです。」
 云うだけ云って、康平さんは、どこかに電話をかけに立っていきました。戻ってくると、初めて気がついたように、一座を見渡しました。
「みんな起きてるのかい。正夫もいるんだね。……もう何時《なんじ》です。酒をのむなら、自分一人でおのみなさいよ。みんなを起しとくという法は、ないでしょう。」
「今夜は、特別だよ。」と芝田さんはにこにこしています。
「早く、仕度をなさいよ。……その間に、一杯もらいましょうか。」
 康平さんは杯に手を出しました。
 駒井さんはしつっこく眼を伏せて、室の隅にじっとしています。正夫は縁側に腰掛けて、闇の中に眼をやっています。
「おい、君たちも一杯やれよ。」と康平さんは誰にともなく声をかけました。「こんなに遅くまで、気の毒だなあ。おじさんの真似しちゃいかんぞ。」
 そして、駒井さんにも正夫にも、杯をさすのです。二人とも、お辞儀をしてつつましくのみました。どういうものか、康平さんには親しみがもてないのです。さばけた調子なのですが、どこか角《かど》があるようなんです。骨の堅そうな額と口髭とが、そんな感じを与えるのかも知れません。
 芝田さんが着物をかえて出てくると、康平さんはふと思い出したように、無雑作にポケットから書類を取出しました。
「これ、常見の方の証書です。受取書もついてるから。大事にしまっといて下さい。抹消登記の方は、僕がしてあげます。これだけの金を拵えるには、ずいぶん苦労しましたよ。」
 芝田さんは平然と、まるで当然のことだったというように、書類を受取り、それを駒井さんに預けました。
「君にも心配をかけたが、もうこれで、安心だよ。昨日のあれが、先方では、見合のつもりだっていうから、呆れたものさ。」
 その言葉が、どういうものか、ひどく冷淡に、嘲笑的に響きました。
 駒井さんは顔を胸に伏せ、康平さんは芝田さんを見ながら、眉根に深い皺を寄せました。
 芝田さんはそれに気付かないらしく、ふらふらと立上りました。
「じゃあ行こうか。」
 康平さんは女中にだけ声をかけました。
「大事な話があるんだから、夜明しになるかも知れない。寝てていいよ。」
 二人を、みんなで玄関に見送りました。
 自動車の動きだす音がすると、駒井さんは廊下をまっすぐ、自分の室にはいって行きました。
 茶の間に戻ってきた正夫に、女中が云いました。
「お床《とこ》は、奥のお座敷にのべておきましたよ。」
 正夫はうなずいただけで、立ったまま、煙草をふかしました。

 駒井さんは
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