へ消えてしまいました。そうだ、正夫も、なんだか恐ろしくて悲しかったのです。
 暫く黙ってると、こんどは、駒井さんが云いました。
「お二人で、喧嘩になりはしないかしら。」
 やはり芝田さん兄弟のことです。正夫は微笑みました。
「康平さんがなにか云っても、おじさんが相手だから、喧嘩なんか……。」
「そうね。」
 おかしいのは、六つも年上の駒井さんの方が、正夫の妹のようなんです。
 芝田さんのことが消えてしまっても、あとになにか残って、淋しいのです。
「ねえ、正夫さん、あたしたち、いつまでも、お互に忘れないようにしましょうね。」
 またふっと、涙がわいてきそうです。
「いやだ、そんなこと言っちゃ……。」
 駒井さんは眼をつぶっています。弾力性のある小さな口付が、かすかに震えています。
 正夫は駒井さんの胸に、顔を押しつけていきます。顔をそこに埋めてしまったら、息がつまりそうな芳ばしい胸です。そうなりたいのです。いやいや……と云うように、駒井さんは正夫を抱きあげます……。
 ぱらぱらと、かすかな音が戸外にしています。また雨が降りだしたのでしょうか。それに耳を傾けていると、その音だけになってしまって、外のものは凡て、宙に消え失せてしまいます。

 少しも眠らなかったのでしょうか、いくらか眠ったのでしょうか、それがよく分りません。なにかぼーっとした明るみが戸外にたたえて、かすかに物のざわめく気配《けはい》です。
 正夫はそっと起き上りました。駒井さんの瞼がちらちら動いて、そのままじっと静まり返りました。ちっとも瞬きをしない深々とした眼差です。それだけで、駒井さんは何とも云いません。
 正夫は縁側に出て、雨戸を一枚あけました。
 ただ一面に仄白い夜明けです。霧とも云えないはどの微細な水気《すいき》が、薄くたなびいていて、それがあらゆるものに仄白い衣をきせています。
 正夫は外にとびだして、大きく伸びをしました。駒井さんとの間に、別に恥しいことがあったわけではありません。恥しいことはなんにもなくて、この仄白い霧のようなものに浸ったのでした。それを考えて、自分でもびっくりするような力がわいてきました。
 庭を歩いていると、大きな蚯蚓がはいだしています。――いつでしたか、正夫がやってくると、芝田さんが襯衣一枚になって、裏の例の畑地を掘り返してることがありました。大きな顔を真赤にし、汗を
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