芝田さんに叱られたことなんか、正夫には覚えがありません。
「そうねえ、あなたは別だから……。でも、あたしも、先生には叱られたことがないんですの。怒《おこ》られたこともないようですの。それで、少しも叱られも怒られもしないのは、じつは、全く無視されてるんじゃないかと、そんな気もするんですが、ひがみでしょうか。」
 へんに真面目な話です。だが、そんなことは、正夫には分りません。
「おじさんは、きっと、怒ることや叱ることを知らないんでしょう。」
 ごまかすつもりでそう云うと、駒井さんはそれをまともにとって、考えこんでしまいました。
 へんに黙りがちな、沈みこんだ食事です。たしかに、駒井さんは、ふだんのにこやかさを失っています。
 それに、食事の間に、三度ばかり電話がかかりました。「ご主人はいつ頃お帰りでしょうか、どこに行ってらっしゃるのでしょうか……。」そういう電話で、先方の名前は仰言いません、と女中が取次ぎます。だから、秘書格の駒井さんは、そのつど、立ってゆきます。電話室から戻ってくると、苛立ってるのを無理に押し隠してる様子なのです。そして葡萄酒を、自分でものみ、正夫にもすすめます。

 九時頃でしょうか、思いがけなく、ざあーっと雨がきました。
 駒井さんの室で、二人はトランプをしてあそんでいました。占いめくりのやりっこや、子供らしいゲームです。
 雨はますますはげしくなります。時々稲光りがぱっときます。何もかも押し潰すような雨音と、何もかも貫き通すような閃光とは、人の心を躍らせます。正夫と駒井さんとは、顔を見合わせながら、戸外に気をとられました。
 もうこれ以上ひどくはなれそうもない、その絶頂の豪雨が、そのまま勢をもち続けています。縁側に立っていって、硝子戸をあけて眺めると、一面にまっ白なしぶきです。その水とも霧ともつかない水気《すいき》が、室の中まで押しこんできます。
 そこへまた、電話でした。
「分りませんと云っといて下さい。」と駒井さんは強い調子で云いました。
「でも、本村町の旦那様でございますが……。」
 本村町というのは、芝田さんの弟の康平さんです。それをきくと、駒井さんはびっくりしたようで、あわてて出てゆきました。
 正夫は一人で雨を眺め、稲光りを眺めました。初め躍りたってた心が、大きな力に押し拉がれて、しいんと静まり返り、その上を、遠い雷鳴の音がころがって
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