くよ考え込むもんじゃねえよ。」
彼等が家へ帰ってゆく頃には、夕暮の薄靄が野の上を蔽うていた。村落のまわりには夕炊《ゆうげ》の煙がたなびいて、西の空は赤く夕映に彩られていた。帰り後れた二三の鳥が、塒《ねぐら》を求めて空を飛んでいた。遠くに牛の鳴く声が長く響いて、そのまま静に日が暮れていった。
そして翌日になると、輝かしい朝日の光を受けて、晴々とした平助の顔と打沈んだ音吉の顔とが、また荒地の上に見出された。
朝の四時頃である。
東の空がほのぼのと白んできて、重く垂れていた靄が静に流れ出した。山蔭や森蔭にはまだ夜の気を湛えながら、爽かな明るみが地平の彼方から覗き出し、それにつれて星の光が薄らぎ、微風が野の上を渡っていった。そしてしっとりと露の下りた草木の葉が、瑞々しい青い匂いを空中に散じていた。
音吉は足早に村を出て、街道を進んでいった。新らしい紺飛白《こんがすり》の単衣に白縮緬の兵児帯を巻きつけ、麦稈帽に駒下駄をはいていた。
彼は東の空を仰ぎ見た。輝き出した黎明の色と消えかかった星の光とを見ると、不安そうに後ろを振返り見た。と西の空には、まだ幾つも星が輝いていた。彼は淋しい笑顔をして、また足を早めた。
荒地の側を通る時、掘り返し積み捨てられた草木の塚を、灌木の茂みの彼方に認めて、彼はふと足を休めた。それからやがて、ふらふらと荒地の中に歩み入った。草葉の露が彼の紺足袋を濡らし、着物の裾を濡らした。野をつき切るとすぐに、昨日まで彼と彼の父とが開墾してきた地面があった。夜のうちに湿気を受けた土地は、健かな黒々とした肌を展べて、茅草の長い葉が青々と蘇って、真直にすいすいと出ていた。
音吉は懐手のまま其処に佇んで、暫くじっと考え込んだ。朝靄が地面に低く匐い流れて、稲田のほのかな匂いが漂っていた。村落の森はまだ夜気に黝んでいたが、何処からともなく小鳥の声が響いてきた。
小鳥の声の合間に、遠く口笛の音がした。音吉は我に返って耳を澄した。口笛の音はすぐ近くに響いた。目籠をかついで街道をやってくる専次の姿が見えた。
音吉は我知らず、両の拳を握りしめ眼を見据えたが、すぐに苦笑を洩らして、荒地を横切って街道の上に出た。そして専次を待ち受けた。
専次は喫驚した眼を見開いて、音吉の姿をじろじろ見廻した。
「早えな。」と音吉は声をかけた。
「草刈りに出ただ……。一体お前はそんな服装《なり》して………。」
「これから町せえ行くだ。」
そして音吉は相手の顔色を窺った。
「ああそうか。」と云いながら専次は眼で笑った。「おたか[#「たか」に傍点]んとけえ行くんだろう。知ってるだとも。大丈夫誰にも云やしねえよ。……早う行けよ。」
「誰にも云わねえか。」
「云やしねえったら。……おらもなあ、そのうち逃げ出そうと思ってるだ。こんな所《とけ》え愚図ついてちゃつまんねえや。その時は頼むぞ。……だが早う行けよ。めっかると面倒だぞ。」
「よし。」
音吉はすたすたと街道を進み出した。歩きながら懐の財布に手を触れてみた。向うの雑木林の彼方には、一筋の軽便鉄道が走っていた。
専次は其処に佇んで、音吉の姿が雑木林の中に見えなくなるまで見送っていた。それからほっと溜息をついたが、急に思い出したように、路端の草の上に手洟をかんだ。
その日は、そしてなお数日の間は、平助の姿が荒地に見られなかった。
雨のない暑い日が続いた。太陽が沈むと、西の空は紅く夕映の色に染められた。夜が明けると、強い朗かな朝日の光が大地の上に照った。そして昼間は、陽炎が野から立昇り、水田の水が湯のように温んだ。午後になると大抵、どちらかの山の峰から、恐ろしい入道雲が覗き出した。そして大きく頭をもたげて、中空を襲いかけるうちに、ゆるやかに横倒しに散らばって、絹糸の風になびくがようにたなびいて、いつしか紺青の空の奥深く消え失せていった。
そして或る日、遂に雷雨がやって来た。北の山の端からむくむくと脹れだしてきた雲は、見るまに恐ろしい勢で空を蔽うた。銀糸で縁取った白い綿のようなのが、真黒な渦巻きに変って、忽ちのうちに太陽を包み込み、やがて一陣の涼風が平野の上を渡って、大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきた。地平線まで黒い影に鎖される頃から、篠つくような驟雨が襲ってきて、電光と雷鳴とがその間を暴《あ》れ狂った。
野や森や村落や、凡てのものが息を潜めて、雷雨の暴威の下に黙り返った。麦畑や稲田の上には、風につれてさっと雨の飛沫が立った。濁水が四方から川へ落ち込んで、満々と渦巻き流れた。そして空から地上へと、蒼白い電光が横ざまに滑り落ちて、長く尾を引きながら轟き渡った。
それが一時間ばかり続くと、何処からともなくただ白い明るみがさしてきて、大地の胸がほっと息をつき初めた。いつしか雷は止み、雨は霽れ、太陽の光が輝いた。空には雲雀の声が聞え、樹梢には蝉が鳴き立った。凡てが清く輝かしかった。木も草もその一つ一つの葉末に、水滴が美しく光っていた。
その時、村を出て街道をやってくる平助の姿が見えた。驟雨に洗い出された道路の砂利の上を、少し腰を曲げ加減にゆっくり歩いてきた。
彼は荒地の中にはいって行き、開墾されてる地面の側に佇んだ。尻端折った着物の下から覗いてる両脛が、妙にひょろひょろと細く、肩のあたりが頑丈に角張っていた。やがて彼は其処に下駄をぬぎ捨てて、開墾地の中に踏み込んだ。柔い黒い土地の上には、雨に叩かれて飛び出てる小石が幾つもあった。彼はそれを一々拾い上げては、草木の根の小高い塚の方へ投げやった。土をふるい落されて幾日も日に輝らされたその草木は、堆く積まれたまま枯れかかっていた。
平助はふと物に慴えたように立上って、あたりをぐるりと見廻した。湿った大地に強い日の光が照りつけていて、水蒸気が静に立昇っていた。田にも畑にも街道にも、人影一つ見えなかった。村落の森はひっそりと静まり返っていた。
平助は暫くぼんやり立っていたが、また腰を屈めて小石を拾い初めた。そして大凡見えるだけの小石が無くなると、ぬぎ捨てておいた下駄を片手にさげ、片手を前帯の間につっ込みながら、真直に村の方へ帰っていった。
翌日朝早くから、また平助の姿が荒地の上に見え初めた。彼は自分で鶴嘴を使いまた鍬を使った。おかね[#「かね」に傍点]が時々鎌を下げてやって来た。背の高い灌木や大きな木の切株を自家の薪に、美しい草を野田の旦那の馬の飼葉に、自分で刈って運んでいった。
「お父つぁん、おらにも鍬を執らしてくれよ。」と彼女は云った。
「お前は日傭稼ぎをした方がええだ。」
「だっておらあ、お父つぁんの側で働きてえだもの。」
彼女は甘えるような眼付で父の顔を見上げた。然し平助は見向きもしなかった。
「いやいけねえよ。こんな仕事は女っ子のするこっちゃねえや。」
「じゃあお前一人ですっかりやるつもりだか。」
「そうだ、おら一人でやるだ。音の馬鹿が逃げ出しちまやあ、もうおら一人の仕事だ。」
「ほんとにやれるけえ。……無理しちゃいけねえがなあ。」
「おらの仕事だもの、おらがするだ。」
おかね[#「かね」に傍点]は[#「 おかね[#「かね」に傍点]は」は底本では「おかね[#「かね」に傍点]は」]それきり諦めて、頼まれればいつでも日傭稼ぎに出かけていった。ただ晩飯は向うで食って来ないで、早めに戻って父とおみつ[#「みつ」に傍点]と三人一緒に食べた。その上彼女は、日傭稼ぎに出ても、合間を見ては父の側にやって来ることが出来た。
丁度稲田の初番《しょて》の草取りの時期になっていた。村の者達は幾人か連れ立って、手甲脚絆のいでたちで稲田へ出かけてきた。平助が去年から拓いた稲田にも、そういう人達が野田の旦那に傭われてやって来た。
「この荒地は肥えてると見えるな。稲が青《しげ》りきってるだ。平助どんの骨折り甲斐だけあらあな。」
「なあに、みんなしてよく肥してくれるからだ。」と平助は答えた。
「いや地体が肥えてなきゃあ、こうした稲の色は出ねえよ。」
「色だけじゃ仕様がねえ。」
「いやそうでねえよ。初作《はつざく》とは思えねえくれえだ。これで二年三年となりゃあ、立派な一等田だ。」
そうかも知れねえ、と平助は思った。仕事に疲れると鍬の柄を杖に佇みながら、喜ばしげな眼付で稲田を見やった。実際その開墾地の稲田は、稲の株の張り方は遅かったけれど、伸びがよくて黒ずんだ勢のいい青さを呈していた。その間を賑かに、草取りの達人の日笠が竝んで進んでいった。その中にはおかね[#「かね」に傍点]も交っていた。見覚えの[#「おかね[#「かね」に傍点]も交っていた。見覚えの」は底本では「おかねも交っていた。見[#「。見」に傍点]覚えの」]彼女の笠が他の人達から後れやしないかと、平助は時々伸び上って眺めた。然しおかね[#「かね」に傍点]は男にも負けない働き者だった。
男達が一寸煙草を一服する間に、彼女は急いで父の所へやって来た。
「お父つぁん、疲れやしねえか。」
「なあにおらあこの年まで鍛えた身体だ。それよかお前こそ若えから、ゆっくりやるがええぞ。」
「ああゆっくりやってるだ。」
「じゃあええから、早う向うに行けよ。」
平助は彼女を来るとすぐに追いやってから、俄に荒々しい眼付で荒地の上を見廻した。
「おらが生きてるうちに、この荒地を拓えてやるだ。」
そして彼は力強く鍬の柄を握りしめた。
稲田の初番の草取りが終ると、急に荒地の附近には人の姿が見えなくなった。畑の麦はもう刈り取られ、田の稲は伸び伸びと育っていた。村の人々は何処へか、他の処へその労働を移していた。ただ平助だけは、毎日同じ荒地を開墾し続けた。初め彼の強情を笑っていた人も、やがてそれを驚歎し初めた。野田の旦那も幾度か、他の村人と合同してはと勧めてみた。然し平助は一人でやると云い張った。彼の仕事はもう彼|独自《ひとり》の生活となっていた。
「地所は旦那のものでも、仕事はおらがものだ。」
そして彼は殆んど一日も休まなかった。朝早くから元気よく鍬と鶴嘴とをかついでやって来た。そして寺の入相《いりあい》の鐘が鳴るまでは戻って行かなかった。音吉が出奔してから変った点は、日に焼けた額の皺が目立って深くなったことと、口元に何となく粗暴な影が漂ってきたこととだけだった。
街道には時々遍路者の姿が見えた。大抵二三人連れ立って、互に話をするでもなく傍見もしないで、路の埃を軽く立てながら通り過ぎていった。平助はいつも、その後姿を見えなくなるまで見送った。然し村人の誰彼が時折り通りかかるのに対しては、彼は余り愛相がよくなかった。
「精がでるなあ。」
そういう挨拶に対して、彼はただ「ああ」と気の無い返辞をして、すぐに向うを向いてしまった。
然しその頃から、平助はよく孫娘のおみつ[#「みつ」に傍点]を荒地へ来さした。
おみつ[#「みつ」に傍点]はもう隣村の小学校に通っていた。夏休みの間中は、庄吉の家へ生れっ児の子守にいっていたが、九月に学校が始まってからは、午後はすっかり隙だった。学校から帰って来ると、誰もいない開け放しの自分の家に飛び込んで、一人で勝手に食事をして、その朝おかね[#「かね」に傍点]が拵えておいた弁当と渋茶の土瓶とを、平助の所へ持って来た。平助は自分で弁当を持って出ないで、おみつ[#「みつ」に傍点]がそれを届けてくれるのを楽しみにした。そして夕方まで彼女を荒地に引止めておくことが多かった。
野田の旦那の長男の健太郎が、都の専門学校から夏の休暇に帰省した時、おみつ[#「みつ」に傍点]は綺麗な麦稈帽子を貰った。平助はそれを大事にしまっておいて、彼女が学校に行く時も被らせなかった。が不意にそれを取出して、弁当を届ける時には被って来いと云いつけた。着物も顔も手足も黒く汚れているのに対して、その新らしい麦稈帽子だけが、黄色がかった白色にぱっと冴えていた。
荒地の中には、白や赤や黄の小さな花が方々に咲いていた。稲田の畔道には、紫雲英《れんげそう》の返り咲きもあった。小川の中や稲田の水口には、小さな魚が群れていた。お
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