土地
豊島与志雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)温《ぬる》み
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彼|独自《ひとり》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]される
−−
鬱陶しい梅雨の季節が過ぎ去ると、焼くがような太陽の光が、じりじりと野や山に照りつけ初めた。畑の麦の穂は黄色く干乾び、稲田の水はどんよりと温《ぬる》み、小川には小魚《こうお》が藻草の影に潜んだ。そして地面からまた水面から、軽い陽炎《かげろう》がゆらゆらと立昇るのを、蒸し暑い乾いた大気は呑み込んで、重くのろのろと、何処へともなく押し移ってゆき、遠い連山の峰からは、積み重り渦巻き脹れ上る入道雲が、むくむくと頭をもたげてきた。
重苦しい真昼の静寂が大地を蔽っていた。埃で白い街道の上には行人《こうじん》の姿も見えなかった。街道は村落の間をぬけて、平野の上を真直に続いていた。一方が水田に他方が畑になっていて、流れのゆるやかな水の深い小川の石橋を越すと、所々に小松や灌木の生えた荒地の中に分け入り、それから野の彼方に消えている。
荒地の中には、まばらな小松や灌木の間に、低い荊棘《いばら》や茅草が茂っていて、小さな花がぽつりと咲いていたりする。その片隅で、平助は鍬の柄を杖に腰を伸して立上った。
「夕立が来なけりゃええがなあ。」
独語のように呟かれたその声を小耳にはさんで、音吉は鶴嘴を投り出して立上った。
「なあに来るがええよ。凉しくなってええ。一降りざあーっと来なくちゃあ、暑くてとてもやりきんねえ。」
額の汗を前腕の袖で拭きながら、彼は親父の方をじろりと見やった。
「仕事が後れるじゃねえか。」
「少しくれえ後れたって何でもねえや。こんなに広い荒地だもの。身体でも痛めちゃあつまんねえ。」
「若えくせして、意気地のねえことを云うんじゃねえよ。」
「それでも、一体《いってえ》いつになったらこれが済むことか、分りもしねえからな。」
「仕事のあるうちがええんだ。」
「だがこんな仕事つまんねえな。」
「何がつまんねえ? このままにしておきゃあ、何の役にも立たねえ荒地だ。それをこうして拓《ひれ》えてみねえ、一段歩に何俵という米が出来るじゃねえか。」
「それがおいらの地所だったらなあ!」
「地所は旦那のものでも、仕事はおいらのものだ。よく考えてみねえ、後々まで残る立派な仕事だ。」
音吉は何とも答えないで、荒地の広さを目分量ではかっていた。平助は眼を外らして、遠く山々の頂に覗いている入道雲を、その山壌《さんじょう》に立昇る一筋の煙を、また広々とした平野の上を、遙に眺めやった。ぎらぎらとした光が一面に漲っていた。彼は眩しそうに眼を瞬いた。
荒地は野田の旦那の所有だった。
一昨年の暮、長く腹膜を病んでたおてつ[#「てつ」に傍点]が死んでからは、平助の一家は益々困窮のうちに陥った。二十歳になる二女のおかね[#「かね」に傍点]と、十八歳になる一人息子の音吉とがいたけれど、おてつ[#「てつ」に傍点]が炭坑から連れ戻ってきた孫のおみつ[#「みつ」に傍点]が手足まといになるし、おてつ[#「てつ」に傍点]の長い病気のために借金は嵩んでいるしするので、平助は先の見込を一寸取失って、陰鬱な気持に沈み込み、大きくつき出たおてつ[#「てつ」に傍点]の腹と、水気のために美しく脹らんだその足とを、いつまでも頭の中に思い浮べていた。
「おらが死んだら野田の旦那様にお縋り申すがええ。」
嫁入りして炭坑に行く前、野田の家に女中をしていたおてつ[#「てつ」に傍点]は、死ぬ間際にそう云った。その言葉が平助にとっては唯一の力だった。
そして実際、野田の旦那はいろいろ平助一家の面倒をみてやった。昨年の春頃から、荒地の開墾を平助の手にゆだねた。平助は蘇ったように元気を取直した。度重った借金はそのまま据え置いて、荒地を一段歩開墾する毎に、三十円の金を手にすることが出来るのだった。
それからもう一年と何ヶ月かになる。
「おらが眼をつぶるまで、この仕事はおいらのものだ。」
平助と音吉とは毎日、鍬と鶴嘴とを肩にして荒地にやって来た。仕事は容易でなかった。以前森だったので、至る所に大木の切株があって、それが地下深く根を張っており、小松や灌木が生い茂り、雑草が高く伸びていた。それでも、灌漑の便がよかったので、開拓さえすれば、そのまま水田になることが出来た。荒地の片隅に、草木の根や石塊の塚が次第に大きくなるにつれて、拓かれた水田も次第に広くなっていった。昨年から拓かれた分には、もう稲苗《なえ》が青々と植っていた。
平助は、自分の手で開墾された土地が、水に浸され馬に鋤かれ、村の娘達の唄声につれて稲苗が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されるのを、にこにこした輝かしい顔付で眺めた。
「地所は旦那のものでも、おいらがそれを拓《ひれ》えたんだ。」
其処に彼と彼の一人息子との、激しい労働と生活とがあった。大地の黒い土が健かであると共に、彼等の力も健かだった。
「だが、こんな仕事つまんねえなあ。」
音吉がそう云い出したのは、村のおたか[#「たか」に傍点]が遠い町の製糸工場へ行ってからだった。
「お前《めえ》、そんなこと云って、旦那にすむと思うか。」と平助は云った。
「それでもね、町せえ行きゃあ、うんと金が儲からあ。おらが町でこれくれえ働きゃあ、お父つあんなざあ寝ててええだ。」
「馬鹿云うねえ。他処せえ行って、稼ぎためて戻って来る者あ一人もありゃしねえ。みんな遊びばかり覚えやがって、極道者になるが定《じょう》じゃねえか。」
平助の頭に殊に深く刻みつけられてるのは、死んだおてつ[#「てつ」に傍点]のことだった。嫁入って間もなく、良人と共に山向うの炭坑へ行ったが、少し小金がたまると、良人は酒と賭博とに深入りし、何処の者とも知れない茶屋女に引っかかって、その女と一緒に出奔してしまい、おてつ[#「てつ」に傍点]は幼い娘を連れて、乞食のような風で舞い戻って来たのだった。それからまた、村の誰彼のことも平助の胸に浮んだ。生活が困難になるにつれて、村の若い者は毎年二三人は屹度遠くへ流れ出した。町の工場へ行く者もあれば、遠く山を越えて炭坑へ行く者もあった。そして多くは、服装《なり》ばかりは立派だが懐中は無一文で、漂然と村へ帰って来て、また何時しか遠くへ去ってしまうのだった。そういうことが村の若者の心に、惰気と不安定とを知らず識らず齎していた。
「おいらが若え時分には、みんな地面にかじりついていたものだ。」と平助は考えた。
「みんな立派な服装《なり》で戻って来るじゃねえか。」と音吉は云った。
「そんなこと云ってお前《めえ》、旦那にすむと思うか。」と平助は繰返した。
「すむもすまねえもねえや。おらあおらが力で稼いでるだ。旦那なんざあ、旨え物あ食ってのらくらしてさ、ただじゃあ一文だっておいらに呉れゃあしねえ。」
「その代り人一倍心配もしてござるだ。何もねえ方が気楽でええとよく仰言るじゃねえか。」
「そんなこたあ勝手な云い草だあ。」ぶつりと云い切って音吉は父の顔をじっと見た。「なあ、兎も角おら一人でええから、暫く町せえやってくんねえか。」
「いやいけねえ。」と平助は強く頭を振った。
二人は暫し無言のまま、太陽の炎熱の中に立ちつくした。やがて音吉はほっと溜息をつくと、自棄に鶴嘴の柄を握りしめて、木の根といわず草叢といわず、大きな土塊を起していった。平助はその後を鍬で耘《うな》いながら、草木の根を土から選り分けて、それを荒地の[#「荒地の」は底本では「荒町の」]片隅へ運んで、小高い塚を築いていった。
そして彼等の太い息と汗の匂いと、胸の底の思いまでが、蒸し暑い大気に包み込まれてしまった。何処かで鳴いてる蝉の声が、じりじり照りつける日の光と融け合って、大地の上に重くのしかかっていた。
太陽が西に傾いて、蒸し暑い大気の密度がゆるみ、土の匂いがほのかに漂いだす頃になると、平助と音吉とは別々な感じで、その一日の労働を味わった。平助は益々仕事に身を入れ、音吉はぼんやり考え込んだ。
遠い山陰に夕靄の色が湛え初めると、音吉は鶴嘴を投出して草の上に坐った。
「もう戻ろうよ。」
声をかけられても平助は鍬を離さなかった。
「なまけちゃいけねえ。日を見てみい、まだ照ってるじゃねえか。おいらが若え時分にはな、日が入《へえ》って寺の鐘が鳴るまじゃあ、仕事を止めなかったもんだ。坊様がなんで鐘をつかさるか、お前は知るめえ。野良に出てるみんなの者に、もう戻るがええと知らして下さるためだ。」
「だが今日はもううんと働えたじゃねえか。」
「働えた上にも働かなくちゃあ、生き甲斐がねえ。」
音吉は口を噤んで、西の山に傾いた赤い太陽を仰いだ。それから眉根を寄せ、両膝の上に頭を垂れて、じっと考え込んでしまった。
「頭痛でもするんか。」
音吉は喫驚したように顔を挙げたが、それをまた膝頭の上に伏せて、思い込んだ調子で云い出した。
「なあ、おらを暫く町せえやってくんねえか。」
「まだそんなこと考えてるんか、昨晩あんなに云ってきかせたになあ……。お前、一体町せえ行って何するつもりだ。」
「製糸工場で人を傭うだとよ。おら其処で暫く稼えで、金がたまったらじき戻って来るだ。」
平助は彼を上からじっと見下した。
「おたか[#「たか」に傍点]がそんなことお前に云って寄来しただろう。」
音吉は顔を挙げたが、すぐに眼を外らして、遠い山の方を見やった。
「おたか[#「たか」に傍点]じゃねえよ。」
「嘘云うねえ。おらにはちゃっと分ってるだ。おたか[#「たか」に傍点]が工場に行く時から、お前は約束しただろう。……あいつ、まだお前を引張ろうというんだな。太え女《あま》っちょだ。あんな者にかかり合っちゃあ、お前のためになんねえぞ。」
「おら何もおたか[#「たか」に傍点]をどうってんじゃねえが……。」
「馬鹿云うねえ。もう村の者あみんな知ってるだぞ。おら一人知らねえとでも思ってるんか。……なあお前、出来たこたあ仕方がねえが、町せえ行ったなあ仕合せだ、あんな図々しい女っちょなんざあ、これきりふっつり思い切ってしまうがええだ。他に立派な娘っ子が、村にいくらもいるだ。」
「おらおたか[#「たか」に傍点]のことどうこうって云うんじゃねえよ。町せえ行って少し儲けて来てえばかりだ。」
「だがの、お前が行っちまったら、後はどうなるだ。男手はおら一人きりじゃねえか。よく考えてみろ。」
「じきに戻ってくるだ。うんと稼ぎためての、お前にも楽させるだ。」
「おら楽なんぞしたくねえ。天道様にすまねえだ。……お前も本当に身を入れて働えてみろ。この荒地はおいらが手で拓くだと思ってみろ。これくれえ立派な仕事はねえ。」
「どうあっても町せえやってくんねえのか。」
「昨晩云って聞かせた通りだ。まあ働けるだけ働くだ。そのうちにはな、おらがお前にええ嫁めっけてやるだ。辛棒しろよ。早まっちゃいけねえ。」
「おら嫁なんか貰わねえよ。」
平助はじっとその顔を見つめた。
「お前何だな……おたか[#「たか」に傍点]から手紙を貰っただろう。」
音吉はただ頭を振った。
「隠してるな。……だがまあええや。うんと働えてみろ。働えてるうちには気が変ってくるだ。」
音吉はもう何とも云わなかった。やがて力なく立上って、ただ機械的に鶴嘴を振い初めた。
太陽が西の山の端に沈んで、遠くに入相の鐘が鳴り出すと、平助はすぐに仕事を切上げた。そして二人は荒地の側の小川で、鍬と鶴嘴とを洗った。それから泥のついた手足を洗い、最後に汗にまみれた顔を洗った。水の中には白い藻の花が咲いていた。
音吉はその藻の花にじっと見入った。平助は空を仰いで天気模様を見た。それから音吉の方へ向いて云った。
「余り一つことをくよ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング