いた者もそれでよろしいことになるでしょう。とは言え、彼女の心の持ち方は、なにか謎めいたものを直吉に投げかけました。それが、彼女との間の距てを一層なくしました。彼は彼女の視線をますます恐れなくなり、彼女に対しても自分の視線を憚らなくなりました。
 軽い跛ではあっても、重い物を持てば人並以上に体に無理がいく、そのことを、彼は正子にはっきり見て取りました。それで、炭や缶詰や麦などの重い配給物がある時は、いつも正子の分をも運んでやりました。正子は彼に靴下や手拭やハンケチを手渡しすることがありました。それから、彼の畑の野菜物を自由に採ってゆくようになりました。蚕豆が食べ頃になってるから四五本抜いていらっしゃいと、彼が誘ったのが始まりで、彼が畑に出てる時は彼女もよく遊びに来、彼がいない時でも、トマト、胡瓜、茄子、菜っ葉の類など、自由勝手に採ってゆくようになりました。
 ただそれだけのことで変りない日々が過ぎ去りました。
 そして、或る曇り空の蒸し暑い日、久しぶりに焼酎の配給がありまして、その上直吉の野菜物への御礼にと隣家から焼酎の贈り物もありまして、直吉は、借家主の坪谷仁作と共に、縁端で杯を交わしました。坪谷の妻の保子が気を利かして、ちょっとした酒の肴も拵えておいてくれました。
 酔ってくると、直吉の顔は赤くなると共に、その火傷した半面が光沢を浮き出させ、あかんべえの眼が細工物のように見えました。その顔を彼は伏せがちに、電灯の光りを避けるようにして、ともすればなにか考えこむのでした。
 坪谷はいたわるように言いました。
「もう諦めるんだね。東京と福井とじゃあ、どうにもならんよ。」
 木村明子のことを彼は言ってるのでした。直吉は顔を挙げて、淋しい微笑を浮べました。
「それはもう、諦めてるよ。とうとう、手紙の返事も書かなかった。」
「いっそ、何にも書かない方が、さっぱりしていいだろう。」
「然し、なんとか、最後に一度は書くつもりだ。」
「それも、やめた方がよかろうよ。なんだな、手紙ってものは、一種の気合だからね。気合ぬけがしちゃあ、もうだめだよ。」
 それから坪谷の持論として、手紙のやりとりは気合でゆくべきものだとの話になりました。この場合、気合には最も時間が大切なものとなるので、書きそびれた手紙はいっそ書かない方がよいというのです。ついては、この頃のように手紙の送達が後れるようで
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