らにつけられ初めてから或る晩、私は虚勢を張るために深酒をのんで、一二度行ったことのある円窓の家へ、ひょっこりはいっていった。そして見知らぬ女と寝ていると、嘗ていろんな男がこの女を相手にしたろうことが、右や左に影絵のように浮き出してきて、私はぞっと震え上り、いきなり女の喉首をしめつけたい衝動に駆られ、それに気がつくと更に恐ろしくなって、夜中の二時半頃其処を逃げ出したことがあった。とても再びそんな所へ行く気にはなれなかった。それかといって、撞球場や碁会所や友人の家などへ行ったところで、どうせ僅かな時間を費すだけで、夜にでもなったら、一体何処へ行って身を休めたらいいのか?……私は何処かへ行くことも家へ戻ることも出来なかった。
おう、何という大きな都会だろう! 何という無数の人間だろう! 空は低く垂れ、空気は塵芥に濁り、むっとするほどの人いきれが立罩め、その中を人々は平気な顔をして、あちらこちらに蠢めいているけれども、この息若しい濛気の中に、昔から今まで至る場所で至る瞬間に為された、何かの一念に凝った人の姿が、数限りもなく跡を止め、それが渦巻き相寄り相集まって、茫とした幽気となり、仄かな陰惨な命に蘇って、今日のようにどんよりした昼や夜には、そこいらにぼんやりと立現れ、ふらふらと彷徨し始めるのだ。そして一体何をするつもりなのか? 私は知っている。通りかかる生きた人間にぴったりくっついて、その身体に乗り移ろうとするのだ。そして多くの人々が、其奴らの餌食となって、其奴らの意のままに操られ、其奴らが懐いてる一念に凝って、其奴らが嘗てした同じ行いを知らず識らずに繰返し、自分の自由にならないのだ。おう何という魔物のような都会だろう!
そして私は、薄曇りの真昼中、往来の真中に、どうすることも出来ないで、惘然として立ちつくした。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
1924(大正13)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
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