都会の幽気
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お上《かみ》さん

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(例)小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22]
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 都会には、都会特有の一種の幽気がある。暴風雨の時など、何処ともなく吹き払われ打ち消されて、殆ど姿を見せないけれども、空気が凪いで澱んでいる時には、殊に昼間よりは夜に多く、ぼんやりと物影に立現れたり、ふらふらと小路を彷徨したりする。
 幽気があるのは、必ずしも都会に限ったものではない。田舎には田舎の幽気があり、山林田野には山林田野の幽気がある。然しそれらの幽気はみな、人間離れのした怪異味を有するものであるが、ただ都会の幽気だけは、どこまでも人間的であり、人間の匂いを持っている。
 幽気であって幽鬼でない以上、それは勿論、形あるが如くなきが如く、音も立てず口も利かず、ただそれと感じられるばかりで、朦朧と浮游しているのであるが、一度それに触れると、人は慄然として、怪しい蠱毒が全身に泌み渡るのを覚ゆる。
 この幽気はどこから生じたのであろうか? 恐らくは、大都会の無数の人間の息吹きが、心の願望が、肉体の匂いが、凝り集って朧ろな命に蘇えったものであろう。実際この都会には、余りに無数の人間が群居している。如何なる小路の奥にも、人の足に踏まれなかった一隅の地面もない。如何なる奥まった壁の面にも、人の眼に見られなかった一片の亀裂もない。吾々の胸に吸われ肌に触れる空気は、幾度か人の胸に吸われ肌に触れたものである。其他この都会の中のあらゆるものが、人間に接触し人間の気を帯びている。そして、劇場や寄席や活動写真館などの中に、むれ臭い濛気がこめると同じように、都会の中にも、人間の息吹きが凝って一つの濛気となり、至る所に立罩めている。而もその濛気の中には、或る時或る瞬間の種々雑多な姿や意欲や匂いなどが、数限りもなく印刻せられる。或る小路の角には、若い男が恋人を待って佇んだだろう。或る暗がりには、盗人が息をこらして潜んだだろう。或る電柱の影には、刑事が非常線を張っただろう。或る軒の下には、病める乞食が一夜を明しただろう。或る街路の舗石の上には、自動車に轢き殺された子供の死体が横たわっただろう。或る尖った石塊には、帰り後れた泥酔の人が躓いただろう。或る静かな裏通りには、若い夫婦が手を取り合って散歩しただろう。或る垣根には、肺を病む老人が血を吐いただろう。或る門口には、恵みを受けた放浪者が感謝の涙に咽んだだろう。或る木影には、糊口に窮した失業者が悲憤の拳を握りしめただろう。或る十字街には、争闘者の短刀が閃いただろう。或る石塀には、高笑いをする狂人が唾液を吐きかけただろう。其他数えきれないほどのことを、或る時或る瞬間に或る場所で人は為しただろう。それらのものがみな、この都会の濛気の中に跡を止める。そしてそれが、渦巻き相寄り相集って、さまざまな幽気に凝結し、朧な命を得て浮游する。暴風雨などに逢えば、何処ともなく吹き払われるけれども、静かに空気が淀んで濛気が凝ってくると、ぼんやりとそこいらに立現れ、ふらふらとそこいらを彷徨する。明るい真昼の光りに照らさるれば、いつしか解けて無くなるけれども、薄ら寒く日が蔭ったり、夜の闇が落ちてきたり、すると、また茫と現れてくる。
 その頃私は、晩になると外に出かけて、夜遅くならなければ帰って来られないような習慣……というより寧ろ気分に、陥ってしまっていた。恋に破れて凡てのものの意義を見失い、何をしてもつまらなく、昼間はまだよかったが、夜になると下宿の一室にじっとしてることが出来ずに、家庭を持ってる友人の家や撞球場や碁会所や、または怪しげな旗亭など、兎に角何処かで賑やかな時間を過して、十二時が過ぎなければ、云い換れば、すぐに眠るより外はない時間にならなければ、下宿へ帰ってゆく気になれなかったのである。時には二時三時頃になることも珍しくなかった。
 所が或る夜、変なものに……いや変な気持に出逢ったのである。友人の家で遅くまで花合せをやって、もう一時半頃だったろう、遠くもない下宿の方へ歩いて帰りかけた。空がぼんやり曇った静かな夜で、重く澱んでる凉しい夜気が、まだ勝負のほてりの残ってる頬に、心地よく流れていった。帽子を目深に被り、両手をマントの隠しにつっ込み、ふらふらと足を運びながら、頭の中には、花札のまん円い赤い月や、傘をさした小野道風の姿や、「あかよろし」と書いてある短冊などが、ちらちらと映っていた。それを一つ一つ心で送迎して、何にも気を留めず眼をやらずに、通り馴れた途筋を、電車通りから淋しい横町へ切れ込んでいった。それからまた右へ曲って、一方が広い邸宅の石塀になってる処へさしかかり、菊の盃と短冊とを敵にさらわれて手にカスが残った忌々しさなどを、ぼんやり思い起しているうちに、ふと、後から誰かついて来るような気配を私は感じた。感じたのはその瞬間であるが、実は暫らく前から私について来たらしい気配だった。この夜更けに……と思って何気なく振向くと、其処には誰もいないで、点々と軒燈の光りの浮いてる淋しい通りが、突き当りまで茫とした薄闇を湛えていた。
 それから暫らくすると、また誰かが私の後をつけてくるような気配がした。振返って見ると誰もいない。そんなことを二三度繰返してるうちに、私は変に身内が薄ら寒くなってきた。そしてすたすたと足を早めたが、やはりすたすたと同じ早さで……といって足音も声もなく、ただその気配だけが風のように、私の後からついてくる。馬鹿馬鹿しいと思ったが、思うほど妙に気にかかって、もう後ろを振向くこともしかねて、益々足を早めていった。そして下宿の前まで来てほっとすると、その気配も何処かへ消え失せてしまった。私は何だか変な気持で、寝静まってるひっそりした通りを透し見て、それから、いつも引寄せたばかりで締りのしてない硝子戸を、少し慌て気味に引開け、身を入れると落付いて静かに閉め、中に垂れている白布をまくってはいった。すると真正面に、停車場で見るような大きな掛時計が、いつもの通りゆるやかに振子を振っていた。それを見て私は、先程からの怪しい気持を払い落してしまった。
 然るに、そういうことが何度も起るようになった。明るい電車通りなんかでは、さすがに一度もなかったが、淋しい裏通りを夜更けに歩いていると、何時何処でともなく、誰かが自分の後からついて来るような気配を、ふっと気付くのだった。振返ってみると誰もいない。真直に歩いていると、また誰かが風のようについて来る。殊に雨のしとしと降る晩なぞは、其奴が雨傘の中にはいって来て、すぐ側に後髪のあたりにくっついて来る。ぞーっとする気持を無理に抑えて、煙草に火でもつけると、もう何処かへ消えて無くなってしまう。
 そのうちに、私は次第にそれに馴れてきて、いろんな理由を推測し初めた。よく考えてみると、私がそれに出逢うのは、何か或る一つのことに熱中した後で、さまざまの雑念が消え失せ、思いが一つの点に集中して、疲れながらもじっと落付いている、我を忘れた而も敏感な状態に在る時だった。それで、空気の静かに淀んでいる夜更けの通りを、ふらふらと歩いてゆくと、丁度船の通った後の海上に船足の波が立つと同じく、私の後に空気の波が立って、それを私は誰かの気配だと感じたのだろう。……そう思うと、私はいくらか馬鹿馬鹿しいような安堵を覚えて、余りそれを気にすまいと努め、また実際大して気にもかからなかった。またやって来たな……というくらいの気持でいることが出来た。
 所が、その気配の方が段々進歩してきた、と云えば変だが、段々はっきりした形を取ってきた。
 或る夜一時頃、私は電車から降りて下宿へ帰っていった。その時私は可成り酔っていた。四五人の友人と馬鹿げた遊びをして、その帰りにまた珈琲店へ立寄ったので、和洋酒混合の雑然とした酔い方をして、頭の中が呆けたように茫っとなって、ただ眼だけに意識の力が集っているという状態だった。それと見て飛び乗った赤電車の中の、粗らな乗客の総毛立ったような顔や、じっと考え込んでいるらしい冷たい顔や、一方にかたまって居眠りしてる四五人の車掌の顔や、天井から下ってる宣伝ビラの赤文字や、窓硝子についている仄白い汚点など、弱々しい薄赤い電燈の光りに輝らされたさまざまの、深夜にふさわしい事物が、頭の奥に残っていて、それでもまだ何か足りない、今に何かやってくる……といったような気持が、寂然とした裏通りを透して見てる眼に集っていた。それに自ら気付いた時私は、また例のものがついて来るぞと思った。途端に、何か人の顔らしいものが、横手の暗がりから私の方を覗き込んできた。おや! と思って眼をやると、もうそれらしいものは消え失せて、垣根の上から覗き出している樫の一枝が、黒々とした影を落してるばかりだった。嚇かすなよ! という気持で四五歩進むと、此度は向うの軒下に、なにやら茫っとした人影が佇んでいる。でも私は、酔ってはいたしそんなことに馴れてもいたので、例の奴が先廻りをしたなというくらいの考えで、平気で歩いて行って、ひょいと見ると、其処には何にもなくて、六七尺ばかりの上の軒下に女中部屋らしい小窓がついていて、この夜更けに雨戸も閉めなく、木格子の中の煤けた障子の紙に、淡く電燈の光りがさしていた。私は一寸足を止めて眺めやった。すると全く思いがけなく、鬢の毛を少しほつらした女の頭が、障子にすーっと影を落して、またすーっと消えた。消えた瞬間に私はぞっと身震いをした。怪しい幻覚が私を囚えた。薄穢い豊満な肉体をしている女中が、そこの障子に姿を写すのを待受けて、一人の色情狂が佇んでいる。それが私自身の姿に乗り移ってきた。私は堪らなく忌わしい怪しい心乱れがして、つと其処を離れて歩き出した。暫くして或る電柱の影から、何とはなしに振返ってみると、先刻の窓からはただ茫とした淡い明るみがさしてるきりで、其処には何の姿も見えなかったが、そうして電柱の影から覗いてる自分自身と、同じ場所に同じ姿で、何かを待伏せしている刑事の影が現われてきて、しきりに私へ乗り移ろうとし初めた。私は喫驚して歩き出した。すると今度は、私と同じように酔っ払って帰り後れた愚かな男の影が、私の身にぴったりとくっついてきた。
 私はもう歩くことも立止ることも出来なくなった。同じ場所を同じ時刻に同じような姿をして、嘗て歩いたろう人影や嘗て佇んだろう人影が、何処からともなく飛び出してきて、私にぴったりくっつこうとする。ただ茫とした捉え難い影で、いずれも、同じようでありながら全然異っている。
 そうして私は、下宿までの僅か四五町の裏通りの中に、一々数えきれないほどの人影を、というより寧ろ、人の気を見た。石塀の先端、差し出てる植込の枝下、垣根のほとり、門口の廂の下、電柱の立ってる三つ辻、溝の横の標石の上、往来に面してる窓際、其他凡そ人の身を置き得るあらゆる場所に、歯をくいしばった者、何かを見つめてる者、眉根をきっと寄せてる者、白い歯並をむき出して笑ってる者、髪を振乱してる者、其他嘗ていろんな人がしたろういろんな姿が、それと定かに表情は分らないが、ただ気配でそういう風に感ぜられる、茫とした幽気となって、宙に浮いたように佇んでいて、通りかかる私の方へ、ふらふらと寄って来て、私の身体へぴったりくっつこうとした。私は走ることも立止ることも出来ず、重い足を無理やりに運ばせながら、叫ぼうとしても声は出ず、殆んど息もつけないで、ただ空の方を見あげたが、空は黒ずんで星影一つなく、遙の彼方に繁華な街路の灯が、不気味な薄赤い色を濁った大気に映していた。おう何という広々とした都会だろう! 何という不気味な混濁した都会だろう! 無数の人がうようよと重なり合って、種々雑多な行為を繰返して、何と息苦しく大気を濁らしてることだろう! そして今凡ての人が自分自身の巣の中に眠ってるこの夜中に、嘗てそれらの人の為した姿が
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