硝子戸を、少し慌て気味に引開け、身を入れると落付いて静かに閉め、中に垂れている白布をまくってはいった。すると真正面に、停車場で見るような大きな掛時計が、いつもの通りゆるやかに振子を振っていた。それを見て私は、先程からの怪しい気持を払い落してしまった。
 然るに、そういうことが何度も起るようになった。明るい電車通りなんかでは、さすがに一度もなかったが、淋しい裏通りを夜更けに歩いていると、何時何処でともなく、誰かが自分の後からついて来るような気配を、ふっと気付くのだった。振返ってみると誰もいない。真直に歩いていると、また誰かが風のようについて来る。殊に雨のしとしと降る晩なぞは、其奴が雨傘の中にはいって来て、すぐ側に後髪のあたりにくっついて来る。ぞーっとする気持を無理に抑えて、煙草に火でもつけると、もう何処かへ消えて無くなってしまう。
 そのうちに、私は次第にそれに馴れてきて、いろんな理由を推測し初めた。よく考えてみると、私がそれに出逢うのは、何か或る一つのことに熱中した後で、さまざまの雑念が消え失せ、思いが一つの点に集中して、疲れながらもじっと落付いている、我を忘れた而も敏感な状態に在る時
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