、形体を離れた影の気となって、何と無数に迷い出してることだろう!
私は漸くにして下宿の前まで辿りつき、硝子戸を引開けて垂布をくぐって、慴え惑った眼付をほっとした気持ちで定めると、例の大きな掛時計が、悠長に長い振子を振っていた。それを見ると、もう自分の城廓の中に戻ったという気がして、安堵の吐息をつくことが出来た。
それまでは、まだよかったが……。或る日私は、妙に肌寒い薄曇りの午後三時半頃、朝からの球突に疲れて、懐手をしながら帰って来た。下宿まで二三十間ばかりの処へ来ると、その自分の下宿の門口に、ぼんやりつっ立ってる若い男の姿が見えた。変な奴だな、と私が思うと同時に、向うでも私の方に気付いたのか、ふらりと門口を離れて、私の方へ歩いてきた。そして一二分の後に、私はその男と擦れ違ったが……ぞっと身体中が寒くなった。不思議なことには、その男の顔付も服装も何一つ私の眼には留っていず、その足音一つ私の耳にはいっていないで、まるで風のような男だと、擦れ違う瞬間に気付いたので、すぐ振向いて眺めたが、その男の姿は何処にもなく、人影一つ見えない静かな通りが、午後の薄明るみを白々と湛えて、向うの角まで一目
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