渡舟場
――近代説話――
豊島与志雄
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東京近くの、或る大きな河の彎曲部に、渡舟場がありました。昔は可なり交通の頻繁な渡舟場でしたが、一粁あまりの川下に、電車が通じ橋が掛ってから、すっかり寂びれてしまいました。附近の農家の人たちが時折利用するだけで、船頭は爺さんだし、舟も古びたものでした。
この渡舟場のそばに、田舎にしては小部屋の多いちょっと洒落た平家がありました。正木の籬をめぐらし、梅の古枝が交叉し、五本の棕櫚が屋根よりも高く葉を拡げていました。昔はこれが、渡舟場の休憩所でもあり、ちょっとした飲食店でもあり、客を宿泊させることもありました。渡舟場が寂びれるにつれて、この家も空家同様になり、船頭の爺さん夫婦が一隅に寝泊りしていました。
ところが、戦争末期、東京が空襲に曝されるようになってから、岩田の母と娘が東京から疎開して来ました。次で、川原一家四人が東京から焼けだされて来ました。終戦後には、中村の息子がやって来ました。年を越してから、支那奥地に出征して殆んど消息不明だった岩田の息子が、ひょっこり帰って来ました。こうして、この家にはぎっしり人がつまりました。
三月中旬、川原一家は北海道へ行くことになりました。然しそのあとには、牧田一家五人がやって来る約束でした。
船頭の重兵衛爺さんの仕事は殖えました。河向う三粁ほどのところに小さな町がありまして、そこへ地元の物資をひそかに売り出すことを、中村の息子の佳吉は仕事としていました。芋や野菜や豆類が、相当の闇価を負って河を渡りました。また、町の小料理屋の小松屋に、加代子という若い女中がいて、そこへ岩田の息子の元彦はしげしげ通いました。夜遅く河を渡ることもありました。
川原一家が移転する時には、重兵衛爺さんは汗を流して舟を操りました。川原一家は東京で罹災したのですが、主な家財は前以てここに疎開してありましたので、すっかり移転するとなると、可なりの荷物となりました。さまざまな箱や菰包みが、一日のうちに河を渡りました。翌日の午後、川原一家の四人が、河を渡りました。東京の知人の家に一泊して、それから北海道へ向うのでした。
岩田と中村の人たちは、川原一家を町の電車まで見送るつもりでしたが、俄にそれをやめて、渡舟の河岸で別れました。送別のささやかな酒宴のため、老若男女によって多少の差はあれ、誰もみな酔い心地でいました。それが、河岸だけで別れる口実となりました。口実である以上、他に理由があったに違いありません。
川原一家の者が立ち去ったあと、人々は各自の行動を取りました。岩田元彦は河縁を逍遙しました。岩田芳江は晩の煮物にかかりました。手伝いに来ている小松屋の加代子は、食器類を洗いました。中村佳吉は薪を割りました。彼はなにかしら薪割りに快味を覚えているようでした。岩田八重子は風呂の火を焚きました。
風呂の火は、どうしたことか、よく燃えないで燻りました。それを煽ぎながら、岩田八重子は涙ぐんでいました。煙が眼にしみるせいばかりでなく、心で泣いているようでした。実際、彼女は悲しい思いをしていました。
――私はどうしてこう涙もろくなってしまったのかしら。ちょっとしたことにも涙ぐんでしまう。その涙を人に見せまいとする思いだけで、もう涙が出てくる。こんなではいけないと思うだけでも、やはり涙ぐんでしまう。
いつぞや、兄さんが板チョコを二枚持って来て、そっと私に下すった。私はお礼の言葉も言えないで、俯向いてしまった。それから、人のいないところで、その一枚をお母さんに上げたが、ろくにお母さんの顔も見ないで、私は俯向いてしまった。眼が熱くうるんできそうだったし、その眼を見られたら、涙が出てきそうな気がしたのだった。板チョコをかじりながら、私は甘い味を楽しむよりも、悲しい思いをした。
兄さんは時折、それもごく稀にだが、チョコレートだの飴だのピーナツなどを、私に持ってきて下さる。私の方では始終、兄さんのお総菜に気をつけている。だけど、おいしい物はなかなか手にはいらないし、たまに手にはいっても、大勢の人のなかで、兄さんだけに上げるというわけにはゆかない。川原さんにしろ中村さんにしろ、もともと親戚同様の懇意な人たちだから、最も乏しい主食だけは別々でも、お総菜はいっしょに拵えることになっている。だから、兄さんだけを特別扱いにするわけにはゆかない。それでも、私は兄さんになるたけおいしい物を上げたいし、いつも気を配っている。そうしたことが、なにか淋しく悲しいのである。お総菜を拵えながら、わけもなく、ふっと涙ぐむことがある。
兄さんが帰ってきた時もそうだった。長い間便りもなく、終戦になっても様子が分らず、ただうち案じてばかりいたところへ、ひょっこり帰っていらした。色が黒く、痩せて、眼ばかりぎらぎら光っていた。私は抱きつかんばかりに喜んで迎える筈だった。ところが、どうしたのだろう、口も利けず、ただ涙ぐんでしまった。その涙は、嬉し涙とはちがっていた。もっと複雑な変梃なもので、悲しみさえ含まっていた。軍人である兄さんを通して、わが国の敗戦をじかに感じたからでもない。戦争そのものは私にとっては、ほんとは縁遠いことのように思われたのだから。そんなことより、なにかもっと大切なものがあるようだった。それが何であるかは、今もまだはっきり分らないけれど、ただ、人間というものに、直接に繋がりのあることのような気がする。兄さんを見た時、その大切なものがはっと胸に蘇ってき、胸を衝いて、私はへんに悲しかったのである。
大切なものが、長い間踏みにじられていた、忘れられようとしていた。今でもそうではあるまいか。それがへんに悲しいのである。
そうした悲しみに、私は囚えられているらしい。だから、川原浩一さんのあの言葉を聞いても、私は顔を赤らめもせず、殆んど胸のときめきも感ぜず、ただ俯向いてしまった。も少しじっとしていたら、私は涙を落したかも知れない。
今朝、庭に立って、空模様を見ていると、浩一さんがやって来た。椿の木に赤い蕾がいっぱいついていた。浩一さんはその蕾を二つ三つ折り取って、じっと見ていた。それから、いよいよお別れですね、と言った。私は頷いた。それから暫く黙っていた。すると、浩一さんは言った。
「僕は遠い北海道へ行きますが、あなたのことは決して忘れません。あなたはこの蕾のような人です。もしも、いつかまたお逢いする時があったら、どうか、椿の花のように美しく咲いていて下さい。」
その言葉を聞いて、私は別に嬉しくもなく、おかしくもなく、なにか悲しい気持ちで、俯向いてしまった。別れが悲しいのではなかった。花のように咲くというそのことが、美しいとか美しくないとかいう事柄を超えて、ふっと胸にこたえたのである。私はかじかんだ蕾のような自分を見た。じっとしていると泣きだしそうな気がしたから、もう何も考えずに、急ぎ足に立ち去った。
それでも、私はやはり涙ぐんでいたらしい。兄さんに行き逢って、兄さんからじっと見られて、珍らしいことには、どうしたのかと尋ねられた。浩一さんと話してたところも見られたにちがいないし、隠すほどのことでもなかったから、私はありのままをうち明け、浩一さんの言葉も伝えた。兄さんの顔になにか烈しい色が走ったが、それきりで、兄さんは黙って向うへ行った。
兄さんは怒ったのかも知れない。この頃いったいに、たいへん怒りっぽくなった。怒りっぽいくせに、私には殆んど何にも言ってくれない。この二つが私にはつらいのである。兄さんが、中村佳吉さんのように、私に冗談を言ったり、おおっぴらに怒ったり、いろんなことを話してくれたら、私はどんなにか嬉しいだろう。兄さんはいつでも、一人で考えたり怒ったりして、私には何にも話してくれない。小松屋の加代子さんに対しても、兄さんはそうなのかしら。お母さんに対しても、兄さんはそうなのである。川原さんたちを見送りに町まで行く筈だったのに、渡し舟まででやめてしまったのも、兄さんの一人ぎめによるのだった。兄さんはなんにも訳を話してくれなかった。酔ってしまったから、そしてみんな酔っているから、舟までにしておこうと、言いきってしまったのである。
川原の小父さん小母さんと浩一さんと浩二さんとが、渡し舟に乗って向う岸へ渡るのを、私たちは水ぎわに立って見送った。薄曇りの空で、水面を吹いてくる風は寒かった。私は両袖を胸もとに合せて、なにか大切な思いをかき抱くような気持でいた。まだ小さい頃、両親に連れられて、箱根に旅したり、那須に旅したりした時のことが、ぽつりと思い出された。亡くなったお父さんのことが思い出された。死亡もまた一つの旅ではあるまいか。そうとすれば、お父さんは一人で旅に出てしまわれた。私もお父さんのように、一人きりで旅に出たかった。山や川や海のさまざまな景色が、次から次へと展開してくるだろう。私はその中に溺れてしまい、何もかも、悲しみをさえ、忘れてしまうことだろう。
私はいつしか涙ぐんでいた。涙はもりあがって、瞼から溢れそうになった。袖口でそっとそれを拭いた。私は涙を兄さんに見られるのが嫌だった。けれどその心配はなかった。兄さんは私たちから少し離れて、河岸をぶらついていた。なにかじっと考えこんでいるようだった。
兄さんが考えこんでる時は、怒ってるようにも見える。怒ってる時は、考えこんでるようにも見える。どうしてああなんだろう。それが私には淋しい。
兄さんは今、どこにいるのかしら。何を考えてるのかしら。煙がまた眼にしみて、涙が出てくる……。
八重子の兄の岩田元彦は、河の縁を逍遙していました。そして考えていました。
――河の悠々たる流れ……。それに似た心境でいたいと願いながら、俺はどうしてもそうなれない。三ヶ年の戦陣生活の後、心身を休める閑静な環境を希求して、それが得られないからであろうか。そればかりではない。俺の手におえないような種類のものが、周囲からひしひしと俺を圧迫してくるのだ。
軍隊では、俺の個人は団体のなかに解消せられて、終日終夜、他人と混淆していた。それから終戦後、俺たちは家畜の群のような一団となって暮し、輸送船につめこまれて、故国へ帰ってきた。ぎっしりつめこまれた上に、船酔い気味の者は寝そべるので、ますます場所は狭くなり、膝を抱えて身を置くだけに過ぎなかった。それから内地の汽車では一層込みあって、つっ立ったまま押し潰されるほどだった。大勢の息と体温とに、俺自身の体臭まで濁ってしまった。
それでも、河のほとりのこの家を望見した時、俺はほっと安らかな息がつけた。時々やって来たことがあるので、よく見覚えがあったし、東京の住宅よりも印象の深いものがあった。屋根の上に大きく葉を拡げてる棕櫚の風情など、心惹かるる趣きを持っていた。ここに母と妹と共に安らかに住むという予想は、心和かな微笑を催させた。体の疲労も一時に忘れた。
然るに、この家の中に私が見出したものは、大勢の群居生活だった。川原にせよ中村にせよ、私にとって見ず識らずの他人ではなかったが、それでも他の家庭の者たることに変りはない。それらの人々が、食膳を共にし、朝から晩まで鼻をつき合せているのだ。起きてから寝るまで、互に挨拶を交わし、何かの応待をし、顔を見合っている。自分だけの場所、自分だけの時間というものを、誰も持っていない。もとより居室はそれぞれ別であるが、日本家屋というものは、殊に平家建てのそれは、甚だ開放的であって、室は室としての独立性を持たない。だから家中の者すべてが殆んど同室雑居に近い状態となる。各自の一隅というものがそこでは無くなる。如何なる社会的共合生活に於ても、各自の魂の憩い場所となり肉体の安息所となる一隅は存在すべきであって、それが無い時、共同生活は単に動物的群居生活に堕する
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