に押っ被さってきたなと思われた瞬間、舟はだっと横倒しに叩きつけられた。それだけで、ひどく呆気なかったが、乗員はもう水中に跳ね出されていた……。
はっはっは……と重兵衛爺さんが高笑いをしていました。元彦はあたりを見廻しました。仄白い水の肌がゆったりと波動していました。なにか嫌らしい感じがありました。嫌らしく、そして空漠として、掴みどころがありませんでした。
――すべて空虚だ。空虚の底にもぐれもぐれ。一人でもぐれ。元彦は俄に明瞭な意識に返りました。そして慎重になりました。三人の者が話にまぎれてこちらに注意を向けていない隙間に、元彦は舟縁から身をずらし、足から胴からやがて頭までするすると水中に浸してゆきました……。
岩田元彦がいなくなったことを、加代子がまず気付きました。中村佳吉も重兵衛爺さんも立ち上りました。舟がゆれて、加代子はそこにつっ伏しました。
ただぼーと暗い夜で、呼んでも叫んでも返事はありませんでした。岩田元彦は消え失せてしまいました。重兵衛爺さんは懸命に櫓を押しました。あちこちへ舟をやっても、無駄なことが分りました。舟を岸につけて、三人は家へ駆け戻りました。村人が数人呼び集められました。提灯が幾つもともされました。重兵衛爺さんはまた舟に飛び乗りました。他のも一つの舟にも人が飛び乗りました。そして河中と両岸と、互に呼び交わしながら、人々は徐々に川下の方へ、電車の鉄橋のあたりまで、岩田元彦を探してあるきました。
その頃、岩田元彦はずっと川上の方にいました。
水中に没して、彼は全くの一人きりになりました。一人きりでちょっともぐっていて、それから泳ぎました。水練の達者な彼は、服のまま岸へ泳ぎつきました。岸に立つと、ひどい寒さを感じました。上衣の水をしぼり、靴の水をあけました。それから土手の上を川上へと歩きました。寒いので駆けだしました。竹藪がありまして、竹の小枝の枯れたのが積んでありました。元彦はポケットのライターをさぐりました。それから水辺の低地を物色して、竹の枯枝を熱心に運び、火をつけました。火は気持よく燃えてあたりを輝らし、空をぽっと染めました。元彦はその火に温まりながら、天涯孤客の心境にあって、瞑想に沈みました。酒の酔いの中での瞑想は、しんしんと深まってゆきました。
その瞑想がどういうものであったかは、彼自身もはっきり覚えてはいません。ただ深い深いものだったというだけで、取り止めもない断片的なもののようでもありましたし、筋の通った連続したもののようでもありました。それは大きな空虚の中の飛翔でした。大空を飛行機で飛ぶのにも似ていて、ただその航空が心の深淵のなかで行なわれたとでも言うべきでしょうか。
その瞑想からさめると、もう酒の酔いもほぼさめていましたし、服も乾きかけていました。元彦はなにか皮肉な微笑を浮べ、次で晴れやかな笑顔になりました。そして落着いた足取りで家の方へ戻ってゆきました。
正木の籬の柔かな葉を一枚さぐり取って、彼は笛を吹きました。家の土間にはいると、その葉を捨てて、ちょっと立ち止りました。
そこの、長火鉢のそば、電燈の明るみの中に、女たちが寄り集っていました。母は背をかがめて、火鉢の火に見入っていました。八重子はりりしく顔を引きしめて、宙に眼をやっていました。加代子はハンカチを顔にあてて、泣いていました。重兵衛のところの婆さんが、三人をかわるがわる見比べるようにして、ひそやかに何か話していました。
それが、元彦には、初めて見出した珍しい情景とも感ぜられました。母の様子もいつもと違い、八重子の様子も平素に似つかず、加代子の様子も普通のことでなくそして婆さんが大きな地位を占めていました。
元彦は[#「 元彦は」は底本では「元彦は」]立ち止ったまま眼を見張りました。そして晴れやかににっこりしました。けれどそれとは別に、なにか胸迫る思いがあって、口は利けませんでした。
八重子が異様な声を立てました。その声で、彼女たちは元彦に気付きました。皆の眼がじっと元彦に注がれました。それらの視線のなかに、元彦は黙って進み出で、靴をぬいで室にあがりました。そしてまだ立ったまま、彼女たちの一人一人にすべてを肯定するような頷き方をしてみせました。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「潮流」
1946(昭和21)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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