て、敷島を一本取り出した。木原藤次はここぞと思った。そして機会を遁すまいとあせって、すぐ大声につっ込んでいった。
「煙草はいけません。」
 男ははっとした様子で、口へ持って行こうとした手先を胸の所で止め、黒ずんだ眼を一寸見据えたが、俄に反り身になって、煙草を車掌の鼻先へ差出した。
「煙草が何でいけないんだ?」
「車内では禁じてあります。」
「馬鹿云え!」と男は一喝した。「禁じてあるのは喫煙だ。煙草を持つことがどこに禁じてある? 貴様の眼は何処についてるんだ? さあ云ってみろ、俺がいつ煙草を吸ったか。よく眼を開けて物を云え。火もついていない煙草を、どうして吸えるんだ。それとも、煙草を手に持ってはいけないと云うのか。どうだ、返辞をしてみろ!」
 木原藤次は自分の早まった言葉を悔いたが、それよりも、相手の執拗な態度に腹を立てた。今に見ろ! という思いで唇を噛みしめながら、男の方に向き直った。が、その時、電車は停留場に停った。男はまだ煙草を持った片手を差伸していた。木原藤次はそれをじっと睥まえた。そして二人のために、五六人の客が降り道を塞がれて、車の出口に立ったまま事の成り行きを見守った。


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