がら、折よく足下にあった石塊《いしころ》を拾って、丁度こちらへ向ってゆっくり歩いてくる安藤竜太郎の顔をめがけて、後ろへ逃げ退りざま投げつけてやった。
 安藤竜太郎が声を立てて右肩を押えたのと、沼田英吉が飛び出してきて群集に道を塞がれてるのと、群集が一時にどっと乱れ騒ぎ出したのとを、矢野浩一は一目に見て取った。そしてすぐ後ろについて来てる三千子の手を執って、素知らぬ風で人影を素早くくぐりぬけ、乱れた円陣をなしてる群集の向う側へ出てしまった。石が飛んできたのと反対の方向の、その方面へ注意を向けている者は誰もいなかった。それでも彼は少し足を早めて、薄暗い横町へ折れ込んでいった。暫くたってから後ろを振返ったが、誰もやって来る人影は見えなかった。彼は足をゆるめて、三千子の方を顧みた。
「どうだい!」
 まだ不安の影を宿しながらもにっこりした眼付で、彼女は彼の言葉と視線とに答えた。そして握り合ってる手先に力を籠めた。彼もそれを強く握り返した。
 それで、矢野浩一はすっかり幸福になった。もう何もかも打忘れて、晴れ晴れとした心地で、ぴーっと口笛を吹き流して、その余韻からすぐに、マーチの曲に吹き進んでい
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