一杯込んでる電車も、何もかも気が利かなかった。そしてまたそれらのものが、彼自身を猶更気の利かないものに思わせるのだった。彼は忌々しい気持を眼付に籠めて、街路の有様を見送っていった。そこへ、車掌から言葉をかけられ、小僧が背負ってる行李の角で背中を突つかれ、車掌から肩を押され、ぐっと癪に障って、持ち前の酒癖も手伝って、腹立ちまぎれの気分がねっとりと車掌の方へ絡んでゆき、更に乗客等の視線から煽られて、引くに引かれぬ破目に陥いっていった。それを自らごまかす気もあって、かさに掛って怒鳴り立ててるうちに、監督という一寸面倒くさい言葉から、度を失いかけたのを取返すために、煙草の失態を仕出来してしまった。それはどうにか切りぬけたが、車掌からいやに真剣な眼付で見つめられ、差出した煙草の処置に困って、降り道に迷ってる五六人の乗客等の方を、じろりと見廻してみた。
その時、ずらりと立並んで重り合ってる人々の中から、麦藁帽に浴衣がけの、背の高い肩幅の広い男が、ぬっと出て来て、いきなり彼野口昌作の肩を引掴んだ。
「ふざけるな、降りちまえ!」と男は底力のある大声で怒鳴って、首を車掌の方へ振向けた。「君は正直に職務を執行しとるんだろう。規則通りに注意してやっとるんだろう。それを、酔っ払って何だと思ってるんだ!」と云いながら彼はまた野口昌作の方へ向き直った。「愚図愚図しないで、降りちまえ。この通り人の邪魔だ。降りた上で俺が相手になってやる。」
野口昌作は咄嗟に口が利けないで、眼をしぱしぱやった。そして口を聞くまもなく、麦藁帽の男の強い力に圧せられて、突き落されるように街路へ降り立った。その前に男は、両腕を胸に組んでつっ立った。
「先刻から黙って聞いておれば、何だ貴様は、車掌がおとなしく下手に出とるのに、いやに図に乗って、立派な職務妨害だぞ。喧嘩の相手がほしければ、俺が相手になってやる。さあ云い分があるなら、云ってみろ。」
もう周囲にはぐるりと人が立並んでいた。「やれやれ!」という声も聞えた。電車の前方から、も一人の車掌と運転手とが降りてきた。木原藤次は少し離れて、手短かに事の顛末を述べていた。人々の気持が緊張して尖っているのが、その顔付にありあり見えていた。野口昌作は意外の敵に面喰って、あたりをじろりと見廻したが、その時何かしら彼の心に、どっしりこたえたものがあった。自分の方に好意を寄せていない群集の好奇心から来たものなのか、或は、自分より幾倍も強そうな相手の男の腕っ節から来たものなのか、或は、人だかりのしてる街路のざわめいた物影から来たものなのか、何れとも分らなかったが、兎に角それがどっしりと彼の心へのしかかってきた。彼は無理にそれをはねのけようとする気で、我を忘れて一二歩進み出た。
「何だ貴様は、横合から飛び出してきて、失敬な、其処を退け!」
「何を! も一度云ってみろ。馬鹿!」と男は頭から怒鳴りつけた。「乗り降りの客の邪魔をしといて、おまけに車内で煙草を吸おうとしたくせに、あべこべに車掌へねじこんでいったのは、皆が見てる通りだ。生意気な風をしといて、酒のせいだとは云わせないぞ。逃げたければ、車掌に謝った上で逃げ失せろ。謝るまでは其処を一寸《いっすん》も動かさぬから、そう思っとるがいい。……おい車掌は何処へ行ったんだ?」
然しその時木原藤次は、も一人の車掌と運転手とに何やら囁かれて、もう電車に乗ってしまっていた。そして、好奇心に駆られてる数名の乗客を残したまま、電車を走らせ初めた。それを麦藁帽の男は見送って、呆気に取られたように佇んだ。
野口昌作は殆んど本能的に、その隙《すき》に乗じた。
「見ろ、間抜め! 貴様なんかを相手にする奴があるものか。」
云い捨てて彼は、二三歩其処を遠退きかけた。
男はその声にぎくりとして向き返ったが、横風に歩き出してる野口昌作の横顔を見ると、太い眉根を震わして両の拳を握りしめた。野口昌作はその気配を感じて、一寸足を止めながら、ちらと横目を注いだ。
「待て!」と男は叫んだ。
声の調子の真剣なのに気を打たれて、野口昌作は其処に立止ったが、相手の一喝にひるんだ自分自身を、無理に引立てるようにかっと唾を吐いて、また一歩足を踏み出した。瞬間に、唾を吐いたのはいけなかったと思うと同時に、右肩を掴まれたのを感じた。
「何をするんだ!」
思わず声が先に出て、そのために我を忘れて、右の靴先で相手の向う脛を蹴りつけてやろうとした。その足先が空に流れた途端、彼はがーんと左の横面に拳固の一撃を受けた。眼がくらくらとして、ほんの一瞬の間、白い歯をむき出してる小さな人の顔が見えた。おやと思って立直ると、すぐ眼の前に、白い服と劒の鞘とがあった。
「まあお待ちなさい。」
二度目の拳固を振上げた男の腕を、巡査が支え止めていた。
そして三人は
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