は聞き咎めた。
「俺を酔っ払いだと云ったな。どこが酔っ払ってるんだ? さあ云ってみろ。車掌のくせに人を何だと思ってる! 馬鹿っ! どこが酔っ払ってるか、はっきり云ってみろ。」
そして彼は足をとんとんと踏み鳴らした。
「静にして貰いましょう、仕事の邪魔になるから。」木原藤次はつとめて落付けた調子で云った。「不服があるなら監督を呼びますから、監督に談じて下さい。」
「なに、監督を呼ぶ! 呼んでこい。さあいつでも呼んでこい。貴様の名前は何と云うんだ? このままじゃあ承知しないぞ。」
それから彼がまだ弁舌り立てようとするのを、木原藤次は怒りを押えた眼付でじっと眺めた。このまま黙っていれば、自分の不甲斐なさを衆人の前に曝すことになるし、喧嘩をすれば、事が面倒になって結局損をするばかりだし、うっかり云い出した通りに、監督を呼ぶとすれば、車掌としての自分の無能を認められることになるし、はてどうしたものかと思い惑った。所が偶然、鬱憤を晴すべき機会がやってきた。
洋服の男は。監督という言葉を聞いて、いきり立って肩を聳かしたが、それから俄に口を噤んで、その口許にせせら笑いを浮べ、片手でポケットを探って、敷島を一本取り出した。木原藤次はここぞと思った。そして機会を遁すまいとあせって、すぐ大声につっ込んでいった。
「煙草はいけません。」
男ははっとした様子で、口へ持って行こうとした手先を胸の所で止め、黒ずんだ眼を一寸見据えたが、俄に反り身になって、煙草を車掌の鼻先へ差出した。
「煙草が何でいけないんだ?」
「車内では禁じてあります。」
「馬鹿云え!」と男は一喝した。「禁じてあるのは喫煙だ。煙草を持つことがどこに禁じてある? 貴様の眼は何処についてるんだ? さあ云ってみろ、俺がいつ煙草を吸ったか。よく眼を開けて物を云え。火もついていない煙草を、どうして吸えるんだ。それとも、煙草を手に持ってはいけないと云うのか。どうだ、返辞をしてみろ!」
木原藤次は自分の早まった言葉を悔いたが、それよりも、相手の執拗な態度に腹を立てた。今に見ろ! という思いで唇を噛みしめながら、男の方に向き直った。が、その時、電車は停留場に停った。男はまだ煙草を持った片手を差伸していた。木原藤次はそれをじっと睥まえた。そして二人のために、五六人の客が降り道を塞がれて、車の出口に立ったまま事の成り行きを見守った。
敷島を持った片手を車掌にさしつけて、五六人の客が降りるのを堰き止めている、この洋服の男は、極東交易商会に勤めてる野口昌作というのだった。株式会社ではあるが殆んど個人経営とも云ってよい、その小さな商会内で、彼は社長から重用せられてる敏腕家だった。ただ欠点としては、酒の上が悪くて怒りっぽかった。そのために社長からも屡々訓戒されたが、また自分でもその欠点をよく知っていたが、やはり癖は直らなかった。そして此度、商売上の用件旁視察をかねて、アメリカへ社員が一人行くことになったについて、地位から云っても、腕前から云っても、自分がその選に当ることと彼はひそかに期待してた所、社長は彼の酒癖を顧慮して、他の温厚な社員を選んでしまった。その内輪だけの送別会から、彼は今戻り途に在るのだった。
会へ出かける時彼は、「今晩遅くなるかも知れない。」と細君へ云い置いてきた。その胎の底では、二次会で思うさま飲んでやるつもりだった。所が会が果ててから、誰も二次会を云い出す者がなかったし、彼が首唱しても、賛成する者がなかった。表面には少しも現わさなかったけれど、内々不平の念でしきりに煽った酒が、悪く頭にまわって、何だかじっとしておれなくなった彼は、帰りに二三の同僚を誘って、何処かへぐれ込むつもりだったのに、どうしたことか変に帰り後れて、一人ぽつりと往来に取残されてしまった。そして半ば自棄気味《やけぎみ》に、一人で飲んで騒いでやれと考えて、それでもなお念のために、懐中を一応調べてみると、七八円の金しか残っていなかった。細君がまた例の手段で、紙入の中を勝手に処分したのに違いなかった。彼は眉根をしかめて舌打ちしたが、持ち合せの不足くらいどうにでもなる、懇意な家へ行ってみようと、少し遠いのを我慢して、電車の停留場の方へ歩き出した。その時、思ったより酔ってる足がふらふらとして、前のめりに、いやというほど電柱へぶつかった。パナマの帽子越しに頭ががーんとして、眼の前が暗くなった。もう何もかも嫌になってしまった。何ということもなく方向を変えて、真直に家の方へ帰りかけた。
所が電車の中で、こんなに早く細君の前へのこのこ帰ってゆく自分自身が、馬鹿げて気の利かない者のように思われ出した。気が利かないと云えば、紙入の中をごまかした細君も、アメリカへ自分をやらない社長も、今日のつまらない送別会も、二次会をしない同僚等も、
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