矢野浩一は、三千子を従えながら、野口昌作と高倉玄蔵との喧嘩のあたりから、終りまでを見物してしまった。高倉がすっぱりと足払いで野口を投げ倒した時、彼は思わず手を叩こうとする所だった。沼田巡査には初めから反感を懐いた。「逃げちまったよ」と云ったのも彼だった。それから、高倉が大きい図体をしながら、沼田の前にいやに悄気返っているのを見て、歯がゆくて堪らなかった。所が安藤が出て来て、いやに横柄な口の利き方をするのが、少し癪に障ってき、沼田に対する反感が、安藤の方へ向いていった。そればかりならばまだよかったが、安藤が沼田の肩を馴々しく叩いた頃から、中の三人には分らなかったけれど、群集の中に、殊に後ろの方に、一種の乱れが起ってきた。
 初めは殆んど感じられないほどの、何かの気配《けはい》だったが、人々の息を凝らした沈黙やひそかな耳語が、その気配のうちに巻き込まれていって、やがて無音の大きなざわめきを作った。知らず識らず皆の気分が、そのざわめきに煽られて、一つの不安を撚りをかけられた。不満とも鬱憤ともつかない、また期待の念ともつかない、何かしらじりじりした、自から動き出そうとするものだった。それが、安藤竜太郎の言行から、じかに糸を引いていた。彼が得意の微笑を浮べて、傲然と一人うなずいた頃、不安な気配は一層高まってきた。
 各人が我を忘れた無言のうちにありながら、群集全体として何かを感ずるそういう気分に、最も敏感だったのは、群集に馴れ親しんでいる矢野浩一だった。彼はその気分を感ずると共に、またその気分から感染されていった。そして胸をどきつかせながら、安藤竜太郎の一挙一動を、前に立並んでる人々の隙間から、宛も節穴からでも覗くようにして見守っていた。安藤竜太郎が最後の言葉を発した時、群集の一団の気分は、そのまま挫けるか破裂するかの、頂点に達した。然し破裂することはなかなか容易ではない。ましてこんな小事件だったので、安藤竜太郎が一寸間を置いたまに、もうしなしなと崩れだして、彼が一歩足をふみ出した時には、その下に踏み潰されて、引いてゆく波のような擾乱を作った。矢野浩一はその打撃がひどく胸にこたえた。云い知れぬ憤懣の念にわくわくしながら、あたりを見廻すと、自分と同じ感情に浸っているらしい、三千子の専心した眼付に出逢った。それが非常な力となった。「やっつけてやるよ、」と彼女の耳に口をあてて囁きな
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