君、そうじゃないか。娘を預って、後見の役目をつとめる、それがなんで醜悪なものか……。」
 岸本は眼を見張った。「若禿」の言葉に彼の頭はひっかかったのだった。マダムに子供があって、それを依田氏が引取っている……そんなことを、彼は一度も聞いたことがなかったのである。二三日前、彼は依田氏を訪れて、金を二十円借りてきたところだった。買いたい書物があるという口実だったが、実はこのバーに来るための金で、依田氏もそれを見抜いてるらしく、金はすぐに出してくれたが、この頃だいぶ盛んだそうだねと、暗に皮肉な訓戒を初めて、寺井さんところに余り入りびたって学業をおろそかにしてはいけない、尤もあすこだけなら安全だが……と、後は例の哄笑で終ったが、岸本は少々冷汗をかいたのだった。そしてその時も、子供のことなんかは、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》にも出なかった。マダム自身も子供のことは匂わせたこともなかった。それを「若禿」が知ってるのが不思議だった。不思議と云えば、先達のことなどもここの常連にみな知られてしまってるらしかった。岸本は茫然として、マダムの方を見やると、彼女は「若禿」の言葉が聞えるのか、聞えないのか、澄しきった様子で、サチ子と笑顔で何か囁きあいながら、夜想曲に耳を傾けてるのであった。「若禿」はまだ岸本の手を握りしめて、饒舌り続けてるのである。
「君を、君のような純情な青年を、マダムの目附役に選んだのは、依田氏もさすが眼が高い。君は大任を帯びてるんだ。いいか、しっかりやり給え、そこで、僕も、君に大任を果さしてやるために、その一助にだ、君の立合のもとに、マダムに結婚を申し込む。僕がいの一番で、そうだろう、先約なんだから、これからは、僕の承諾なしに、マダムには指一本さすこともならない……とこういうわけさ。目附役の君が証人だ。いいか、証人は神聖な誓いだ。改めて僕は、依田氏の許へも、結婚の申込をする。マダムとその娘と……三人の新生活だ。おう神よ……というところだが、僕は今……なあに、酔ってやしないんだ。君はまだ青二才で、人生の奥底は分らない。だから、僕のこの胸中も分らないだろうが、マダム……マダムなら分ってくれる。そういうわけなんだ。そのわけが、君にも今に分るようになる。だから、しっかりし給えというんだ……。」
 本気だか酒の上でだか、そこのところは分らなかったが、その饒舌に、真面目なものと嫌悪さるるものとを感じて、岸本はそっと手をはらいのけた。すると「若禿」はぐったりとなって、卓子の上につっ伏してしまったのだった。
 岸本は立上って、スタンドの方へ歩みより、マダムをよんで、アブサンを一杯もらった。何かしら酔っ払いたい気持だった。コップの水にアブサンが牛乳のように混和してゆくのを、心地よく見つめて、その眼をずらしていくと、すぐ前に、マダムの笑顔があった。
「子供のこと、本当ですか。」と彼は囁いた。
 マダムはにっこりうなずいて、今まで知らなかったのですかと、囁き返すのだった。彼が知らないでいるのが不思議そうらしかった。依田さんの奥さんが引受けてくれてるのであって、このバーも奥さんの後援で、一々会計報告までもするんだそうだった。そこで一寸眼をしばたたいて、まるでだしぬけに、涙ぐんでしまったのだが、もうすぐに笑顔をしてるのだった。いつもより老けて、眼尻の皺が目立った。岸本はコップの白い酒をあおった。
 あーあ、とわざと大きな欠伸の声がすると、マダムはするりとそこをぬけて、声の方へやっていった。棕梠竹の葉影に彼女のすらりとした姿がつっ立って、それが何やら小さく首をふると、わーっと歓声があがって、サチ子はまたビールの瓶を持っていった。決して客席に腰を下さないのがマダムのたしなみで、つっ立ったまま、土地の商家の人たちにインテリ風な冗談をあびせてるところは、バーのマダムという言葉にしっくりはまってるのであった。
 岸本は蓄音器のところへ行って、レコードを一枚一枚とりだしては、その譜名を丹念に読んでいった。あらゆるものがごっちゃにはいっていて、その錯雑さのなかで眠くなってしまった。
 揺り起されて彼が眼をさました時には、バーの中は静まり返って、客はもう誰もいなかった。サチ子が眠そうな眼で笑っていた。マダムはスタンドで、眉根をよせながら伝票を調べていた。岸本は大きな長い足を引きずって「若禿」を起しにいった。何かしら腹がたって、拳固で背中をどやしつけてやると、彼はぎくりとして、川獺のような顔付をもたげた。その眼が、そして頬まで涙にぬれてるのだった。眼をさまして、またしくしく泣きだした。岸本はまた腹がたってひどくなぐりつけてやった。「若禿」は泣きやんで、唖者のように黙りこんでしまった。そして勘定を払って、ふらふらと出て行った。岸本もその後に続いた。マダムが戸口まで送ってきて、小首をかしげて見送ってくれる眼付を、岸本は背中に感じて、拳をにぎりしめながら、大地を踏み固めるような気持を足先にこめて大股に歩いた。

 それから五日目の朝、岸本は下宿屋の電話口に依田氏から呼びだされて、いきなりどなりつけられた。前々日の晩、バー・アサヒへ行って、マダムの平静な顔を見てきたばかりのところなので、一層驚かされたのだった。この頃学校へは行ってるか、というのをきっかけに、バーへばかり入り浸って勉強はどうしたんだ、というのだった。酒に酔っ払って、下らない連中に交って、何もかもべらべら饒舌りたてて、俺も寺井さんもどんなに迷惑してるか分らない。そんなことのために、寺井さんはバーを止めてしまった、というのだった。岸本にはまるで訳が分らなかった。だがそんなことには頓着なく、依田氏の声は引続いていった。酔っ払って夜遅くやってきては、毎晩のように寺井さんの裏口に忍んでくる、あの犬のような男は何だ。俺の家へまで手紙を寄来して、何という恥知らずの男だ。あれが君の友人なのか。君から話があってる筈だというが、一体どういう話だ。それに君は、あの土地の芸者とも知りあいらしいが、そんなに堕落したのか。自分の年齢を幾つだと思っているんだ。心が改まらなければ、郷里の両親へ手紙を出して、早速学校も止めさしてしまう……。とそんなことが、ひどく早口になったり、ゆるくなったり、ぽつりと途切れたりして、岸本の耳に伝わってくるのだった。岸本は呆気にとられて、理解しようとすることよりも、依田氏の手を――肉が厚く皮膚がたるんでいて、棕梠の毛を植えたような大きな手を――ふしぎに眼の前に思い浮べてるのだった。そして言葉が切れると、それは何かの誤解だからこれから伺います、と叫んだのだったが、来るには及ばないと一言のもとにはねつけられて、根性がなおったらそれから来い、弁解の必要はない、とただそれだけで、そして多分はあの小柄な奥さんだろうが側の人と何やら囁く声がして、電話はがちゃりと切れてしまった。
 岸本はその十分間ばかりの電話に汗ばんで、それから唖然として、自分の室にいって寝転んだ。あの「若禿」が何か粗忽をしたらしいことは分ったが、自分が何か饒舌りちらしたとか、芸者がどうだとか、そんなことはまるで見当がつかなかった。まさかマダムが嘘をつくわけはなかった。彼は一切のことを依田氏へ手紙を書き送ろうと、その筋途を頭で立て初めたが、そのうちに、はかばかしくなってきた。そう考え出すと、何もかもばかげてきた。ばかげていて訳が分らなかった。一体「東京」そのものが、卑俗で軽佻でばかげていて、そのくせ、何かしらこんぐらかった底知れない不気味なものがあるようで、さっぱり見当がつかないのだった。そして妙に頼りない宙に浮いたような自分自身を見出し、強烈な洋酒の味だけが喉元に残っていて、マダムのことが、丁度少年の頃寺井菊子さんのことを考えたのと同じくらい漠然と、考えまわされるのであった。
 三日後に、岸本は学校宛の手紙を受取った。――こんど都合で、バーを止めることになりました。御好意は忘れません。いずれまたお目にかかることもあると存じますが、御身体を大切になさいませ。――とただペン字でそれだけで、所番地もなくTとだけしてあった。岸本はそれを上衣の内隠しにしまって、さて、マダムが依田氏の家に居るだろうとは想像したが、暫く行くのを差控えて、その代りに、バーの方を訪れてみた。戸が閉っていて、貸家札がはってあった。岸本はその前に暫く佇んで、それから、大通りを、明るい方へとやたらに歩いてみるのだった。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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