ては、心の落ちつけどころが分らなくなるのだった。
 然しそうしたことから、岸本は意外にも依田氏夫妻と親しみが出来、また、寺井菊子のバー・アサヒ(恐らく郷里の旭川からとってきた名前であろう)へも出入するようになった。
 初めは、さすがに、様子が分らないので、午後、客のなさそうな時間にいってみた。上野公園を少し歩いて、広小路を二度ばかり往き来して、それから横町に曲ると、すぐに分った。赤黒く塗ってある扉を押してはいると、中は変に薄暗く、高い窓の硝子だけがぎらぎら光って、室の真中に大きな鉢の植木が、お化のようにつっ立っていた。その向うにいろんな瓶の並んでる棚の前に、コップを拭いてる背の高い女がいて、近視眼みたいな眼付でこちらをすかし見ながら、機械的に微笑してみせた。見覚えがあるようなないようなその顔に、岸本は一寸ためらったが、つかつかと歩いていって、お辞儀をした。
「寺井さんは、あなたですか。」
「はあ。」
 怪訝[#「怪訝」は底本では「訝怪」]そうなそっけない返事だった。がその時、岸本ははっきり思い出した。不揃いな髪の生え際と深々とした眼附……。だがそれだけで、ほかは夢想の彼女とまるで違っていた。束髪に結ってる髪が、わざとだかどうだか縮れ加減で変に少くさっぱりしていて、額が広く、それに似合って、すっきりした鼻と引緊った口と小さく尖った※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]――どこか混血児くさい顔立と皮膚。どう見ても三十歳以上に老けていた。その、夢想とちがってる彼女の姿が却って、岸本を落付かして、岸本はすぐに名乗ってみたのだが、彼女はただ微笑んでるきりで、感情を動かした様子は更に見えなかった。
「まあこちらへいらっしゃいよ。」
 彼を窓のそばの席へ導いて、自分でコーヒーを入れてきて、彼にすすめながら、真正面にじろじろ彼の様子を眺めるのだった。ちっとも嫌な視線ではなかった。彼はぽつりぽつり話しだした。こんど上京してきたことと、依田氏を訪問したこと、彼女の噂をきいたこと……それから、彼女が黙って聞いてくれてるのに力を得て、昔彼女に逢ったのを覚えてることを依田氏に話して、初恋かとからかわれたことまで云ってしまった。
「あら、そうお。」
 彼女はただにこにこしてうなずいてみせるきりだった。依田氏のところみたいな反応は更になくて、ただ柔いやさしいものが彼を包んでいった。それは故郷といった感じに似ていた。彼女に対する気持は、小母さんというのとはまるでちがっていたが、話の調子は自然とそういう風になっていった。地肌の浅黒い洋装の娘が――サチ子が――帰ってくると、彼女は思い出したように立上って、甘いカクテルを拵えてくれた。それから、蓄音器のそばに連れていって、レコードを幾枚も取出し、好きなのをかけてあげようと云った。然しレコードのことなんか、岸本には更に分らなかった。三人連れの大学生がはいって来たので、岸本は勘定をして帰ろうとしたが、彼女はどうしても受取らないで、この次から頂くことにすると云うのだった。そうした彼女が、岸本には、まるで「東京」と縁遠いもののように思われた。
 然しその彼女も、何度か彼が行くうちには、次第に移り動いて、スタンドの上から客と応酬し、時には自分もリクールに唇をうるおして談笑する、バー・アサヒのマダムとなっていった。それと共に、岸本も洋酒の味を知るようになった。それでも岸本の心の奥には、小母さんとも云いきれず、マダムとは猶更云いきれず、それかって恋とか愛とかの対象とは更に縁遠い、何か夢の幻影みたいなものが、はっきり残っているのであった。
 それをどう説明してよいか、岸本は自分でも分らなかったのである。それさえはっきりすれば、マダムと「ドラ鈴」との肉体的関係のないことなどは、一度に分る筈だった。
「とにかく、何の関係もないことは、僕がよく知っている。」
 岸本はそう云いながら、やはり室の中をのっそり歩いていたが、みんなは、知ってるだけでは分らない、うまくしてやられてるんじゃないかな、としきりに揶揄してくるのだった。一寸考えなおしてみれば、何でもないことで、どうでもいいじゃないかと投げ出せることだったが、そいつが妙にこんぐらかって、その上、彼等のうちの、髪をきれいに分けた、顔の滑かな、時々、芸妓なんかを連れてくることのある、若旦那風の角帯の男が、黙ってにやりにやりしているのが、いけなかった。マダムのために一杯飲もうと、ビールの杯を挙げるような男だが、そいつが、黙っておもてで笑いながら、裏からじっと覗いてるようだった。畜生、と足をふみならしたいところだったが……。
 そこへ、マダムが帰ってきた。へんに混血児らしい知的な顔をつんとさして、幾重もの意味を同時にこめた笑みを眼にたたえて、お辞儀とあべこべに身体を反らせて……。
「まあ、皆さん、留守をしてすみませんわね。」
 急に明るくなったような室の中に、背がすらりと高くて、頬の薄い白粉の下にほんのりと紅潮している。やあ! とみんなが、拍手ででも迎えそうな気配のなかに、岸本は一人逆らって、今小母さんの噂をしてたところだと云ってしまった。そう、いない者はとかく損ね、とそれがまるで無反応なので、岸本は云い続けた。
「小母さんが、あの……依田さんと関係があるとかないとか、そんなことが問題になっちゃって……。」
 彼女の眼がちらと光ったようだったが、瞬間に、それはとんだ光栄で、何か奢らなければなるまいと、更に無反応な結果に終ったのであったが、男達の方ではその逆に、へんに白け渡って、岸本の方をじろじろ見やるのだった。岸本は席に戻って、煙草の煙のなかで、考えこんでしまった。そこへ、蓄音器が鳴りだし、それに調子を会して、彼等が敵意的な足音を立て初め、マダムはスタンドの向うに引込んで、何やら書き物をしていた。
 そして彼等が出て行くまで、出ていってから後まで、岸本はじっとしていた。するとサチ子がやってきて、面白そうに笑い出したのだった。思いだしたのだ。あんな乱暴をしちゃいけないわ、と云い出した。
「あんな奴は嫌いだ。」と岸本はふいに云った。
「だって、土地の人だから、仕方ないわ。」
 十七の娘にしては、ませた口を利いて、彼女は囁くのだった。マダムのことをいろいろ聞く人があるけれど、知らないといって笑ってると、チップを余計くれるんだと。岸本は嫌な気がして立上ると、マダムは向うから、いつもの調子で、晴れやかに笑ってくれるのだった。
 岸本は外に出て、息苦しかったのを吐き出すように、大きく吐息をした。

 そのことがあってから、岸本は妙に人々から目をつけられてるのを感じたのだった。上野広小路の裏にあるそのバーは、場所のせいか、客には土地の商家の人々が最も多く、会社員は少く、学生は更に少なかったので、学生服のことが多い岸本は、よく目立つ筈だったが、それが逆に無視された形になって、誰の注目も惹かないらしかった。彼の無口な田舎者らしい引込んだ態度も、その一因だったかも知れない。ところが、あのことがあって以来、顔馴染の客は大抵、彼を避けると共に、彼の様子にそれとなく目をつけてるらしいのが、次第にはっきりとしてきた。そうなると彼も意地で、なお屡々通うようになった。別に何というあてもなく、隅の卓子につくねんと坐って、ウイスキーやコニャックの杯をなめるのだった。サチ子が時々相手になりに来たが、別に話もなく、冗談口も少いので、すぐに行ってしまった。マダムが時折、無関心らしい視線を送ってくれた。
 土地の商家の若い人たちも、屡々やって来たが、彼に対してはもう素知らぬふりで、会釈さえしなかった。そして彼の存在を全く無視したような振舞で、他に客がないと、マダムをつかまえて下卑な冗談口を云いあったり、植木鉢をわきに片附けて、ジャズで踊ったりするのだった。それが実は、彼の存在を意識しての上でだということが、眼付や素振で分るので、何かしらそこに陰険な狡猾なものが加わってくるのだった。そればかりでなく、若旦那風の角帯の男は、土地の安っぽい芸妓を二三人ひっぱってきて、のんだりふざけたりした揚句、君たちが奢る約束じゃなかったかと云って金を出そうとしないので、芸妓たちはきゃっきゃっと騒いでから、ああこれでいいわけねと、その一人が紙入から名刺を[#「名刺」は底本では「名剌」]一つ取出した。どうして手に入れたか、依田賢造の名刺で[#「名刺で」は底本では「名剌で」]、それをマダムに差出して、お勘定はこちらに……と、すまして、どやどやと、出て行ってしまったのである。マダムは顔色さえ変えず、いつものように、知的な顔に微笑を浮べて、そんなのをも迎え送るのだった。その虚心平気な態度を、岸本は感歎の念でまた見直すのだった。
 ところが、或る晩、岸本が少々酔って、帰りかけると、扉の外に「若禿」がよっかかるようにして立っていた。童顔の頭が禿げかかって近眼鏡をかけてる、一寸胡散にも利口にも見える背広の中年の男で、いつも一人でやってくる常連のうちだったが、それが、先程からそこに立っていた様子をごまかそうともせず、ほほう……と岸本の顔を眺めて、丁度いいところで出逢ったから、一緒につきあってくれと、もう既に酒くさい息を吐きながら、岸本の肩をとらえて、バーの中へでなく、ほかの方へ引張っていくのだった。そして近くのおでん屋へ引張りこんで、一体あんたはマダムに惚れてるのかどうかと、突然尋ねだしたのである。岸本が言下に強く否定すると、彼は握手を求めて、あんたは正直だから信用してあげると、他愛なく笑ってしまうのだったが、暫くすると、ほんとに惚れていないのかと、またくり返すのだった。そして、僕はあんたの云うことを信ずる、「ドラ鈴」とマダムと関係のないことも信ずると、一人で饒舌りちらしてから、あんたはほんとに惚れていないんだねと、またくり返すのである。その度に何度も握手を求めて、それから彼を引張って、バー・アサヒへ逆戻りしてしまった。岸本は酔ってもいたが、何かしら引きずられる真剣なものを彼のうちに感じて、云われる通りに引廻されてしまったのであった。
 バーの中には、土地の若い人たちと、他に二人会社員がいた。「若禿」はまんなかの卓子に坐って、アサヒ・カクテルを三つ、三つだと念を押して、それからふと立上って、蓄音器のところへ行き、しきりにレコードをしらべて、一枚の夜想曲をかけさせ、このバー独特とかいうすっきりしたカクテルが来ると、マダムを呼びよせ、岸本とマダムの手に一杯ずつ持たせて、立上ったのである。
「ええ……小生は、マダムとドラ……依田氏との間の、純潔を信ずるものであります。そしてここに、お目附役の岸本君の立合のもとに、マダムへ結婚を申込むの光栄を有するのであります。」
 そしてぐっと一息に杯を干して、尻もちをつくように椅子に腰を落して、きょとんとしてるのであった。とり残された岸本とマダムとは、杯を手にしたまま眼を見合ったが、その時、一寸緊張したマダムの顔が、花弁のように美しく岸本の眼に映った。岸本は一息に杯を干したが、マダムは唇もつけないで、卓子の上に杯を戻して、もういたずらな笑みを含んだ眼付となっていた。
「まあ。」と卓子をとんと叩いて「ばかばかしいわね。何を二人で、たくらんでいらしたの。」
 それが「若禿」に衝動を与えたらしかった。彼はひょいと頭をあげて、マダムが立去ってゆくのには眼もとめずに、岸本の顔をまじまじと見ていたが、長い手を延して、岸本の手をとって打振りながら、岸本へ向ってではあるが、酔っ払いの独語の調子で饒舌りだすのだった。
「僕は……ねえ君、僕は、たくらみだの、邪推だの、そんなことが、第一性に合わないんだ。だから、君の言葉を信ずる。愛すべき青年よ……愛すべき……彼女よ、マダムよ。彼女は純潔なり。ドラ鈴と、関係などあってたまるものか、僕が保証する。マダムは生活のために奮闘しているんだ。ブールジョア共には分らない。マダムは可愛いい娘のために働いているんだ。依田氏がそれを預って、育てていてやればこそ、マダムは後顧の憂いなく、こうして奮闘しているんだ。ねえ
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